第91話 《キキョウ》6

「私、やっぱり彼と一緒に暮らしたいです」

開口一番、私は自分の想いを並べ連ねた。

昨日の出来事
アイハを二人で見ていきたいこと
彼との生活を望んでいること
ただ彼の精神的苦痛を取り除くには難しく感じること
彼の不安な心を取り除かないと私の願いを叶えるのは難しいこと
でもそれを私の人生で叶えたいことであること。

あまりうまくは伝えられなかったかも知れないけど、一つ一つ、噛み締めるように話をした。

その上で、どうしたらよいか相談したかったことを伝えた。

博士は途中で口を挟むことなく、ゆっくりゆっくり、一つずつ丁寧に話を咀嚼してくれた。

「…そうか…そうか、キキョウ…君も、辛かったな」

その言葉を聞いた途端、ぐぐぐ…と喉の奥が鳴り、我慢を重ねてきた私の心が溢れ、堰を切ったように涙が止めどなく流れ落ちた。

「…ゥ…ゥググ…ググ…
ワアァァァァアアッ!!ワアァァァァアアッ!!
ワアァァァァアアッ!!ワアァァァァアアッ!!」

悲鳴にも似た声をあげて、私は泣き続けた。

博士はじっと私を見詰めたまま、なんともいえない顔をしていた。

「…コーヒーでも淹れ直そうか…」

博士が席を立ってから、何回も何回もティッシュで鼻をかんだ。

少しして新しいコーヒーを持ってきてくれ、私が落ち着くまで待ってくれた。
「…たまに泣くのがいい。そんな時もあるさ」

熊のような大きな手で、私の頭をワシャワシャと撫でてくれる。
博士から見たらアイハも私も同じようなものなんだろう。
その顔はとても優しい顔をしていた。

「君の話は理解したよキキョウ。
なるほどわかった。私も君とラブイズが幸せに暮らすことを望んでいる一人だ。
まずは惜しみない協力を約束しよう。
ただ、いきなり残念なお知らせだが、幼少期からのやり直しは出来ない。
それは現在のラブイズが成人しているからなんだ。
このシステムは、現状の現実をほんの少しだけ、違った方向に向けることだけしか出来ないんだ。
いきなり大人の心を持った子供がいたら不自然だというのは理解出来るかい?
あまりに不自然な環境は、それこそラブイズの心を破壊してしまう。

だけど君は素晴らしいヒントをくれたよキキョウ。
『一つ一つ心の糸をほどいていく』

これだ。
結局糸をほどくのは我々には出来ない。
ラブイズ自身がやらなくてはならないことだ。
そして皮肉なことに、その糸のほどき方は彼自身がよく知っているはずなんだ。
それが『客観的』にね。
『客観』を『主観』に置き換えてやるとどうだろう。
つまり君が『ラブイズ』に
ラブイズが『君』になるということだ。

私とラブイズはこのシステムを作るにあたり、一つの仮説を立てて組み立てている。

それは『正しい思考の方向性は正しい愛によって導かれる』というものだ。

正しい愛を形成する一つの要素に『思い遣り』が含まれていると我々はにらんでいる。

自己愛、いわゆるエゴが過ぎると自己を守るために周りを犠牲にする。

ポイントの一つは環境だ。

通常、親から得られる惜しみない愛情を受け、人は成長する。
そして大人になると、受けた愛情を社会に還元し、その循環で世の中のポジティブなエネルギーは維持されている。

しかし愛を受けなかった子供は、愛に気付かない、愛を知らない為に、無闇に愛を探す。

それが、大人になってからもずっと探し続けてしまう。

与える立場になっても、愛を知りたい、愛を得たいが為に、愛を奪うようになる。

母親が幼子に与える愛は遺伝子に組み込まれた程最高峰のもので、またそれは唯一無二のものだ。

それにとって代わるものは世の中には無いだろう。

だとしたら、次に知るべきは『大いなる愛』だという仮定が生まれた。

太陽があるから温かい
空気があるから息が出来る
地面があるから立つことが出来る

世の中の大いなる愛に気付くことが、心の成長に大きく関与しているということだ。

これは一つの宗教観とも言える。

あらゆる宗教すべてに共通することは心の方向性を示している点だ。

宗教観を通じて、心を学び成長を促す。

そしてその価値観の元に行動は作られていく。

我々が目指したものは、自らの意思でマインドをコントロールしていき、正しい方向性の行動をしていくことが出来るようになることだ。

その為に必要なことは『体験』であるとあらゆる研究から導き出した。

あらゆる争いは『お互いの正義』がぶつかり合う時に勃発する。

ラブイズにはラブイズの正義があり、
君には君の正義がある。
そこには『自分の中の正義』を守るあまりに人を傷付けるという、間違った愛の方向性がある。

そこに必要な心の成長として『思い遣り』が挙げられる。

相手の気持ちがわかり、相手に対する配慮が生まれ、
自身を振り返り、
周りを傷付けることのない心が生まれるのではないか…?

ラブイズが君の立場になり、もしも思い遣りを含む愛を体感するとしたら…

その為の素養は彼にはあるのを私は確信している。
そうであれば、ひょっとしたら…うまくいくかも知れない。
ただ可能性が10%から11%に上がるくらいだがね。
でもキキョウ、その1%が非常に大きいんだ。わかるかい?」

「…でも…その機械に入ると目が覚めないかも知れないんでしょう…?」

「…その可能性は89%程あると言える。
ただ私は、個人的な意見を言えば確率論とはあくまでも様々な推測が生んだ統計的なパーセンテージなだけであるから、すべての確率は50%であるとも思っている。
つまり、起きるか起きないか、だ。

キキョウ…

50%の話をするならば、ラブイズがこの状態のままでいると50%はこの状況が続き、残りの50%の確率で自ら命を絶つだろう。

もちろん私はラブイズの心の成長を信じている。
このままでも後5年もすればまた状況は一変するかも知れない。

ただ、現状ここまで症状が悪化している場合、通常の対症療法には限界があると思う。

私は認知行動療法が有効だと思い、ラブイズと一緒にそれを実践してきた。
それはある程度の効果を挙げ、とりあえず曲がりなりにも社会生活が歩めるようにはなった。

このマシンはその認知行動療法の最先端に位置するものだ。

人間は知識と経験で成長する。

ラブイズは…
ラブイズは私にとって息子のようなものだ。

彼が発症してから私はありとあらゆる療法を彼に施した。

私にはもうこれが最後の方法だとも思っているし、また逆に彼はこのままでも良いとも思っている。

ラブイズが…彼が生きてさえいれば、私はいいんだ。

ただ…私から見れば彼はもう限界に感じる。

彼自身がこのマシンに入ることを望んでいるんだ。

それはある意味自傷行為にも似た行動だとも私も思う。

ただ…自ら命を絶ち、この世からいなくなるよりは…
例え最悪、目が覚めなかったとしても、いつか目が覚めるかも知れないと、生きている彼をまだ見続けることが出来れば…」

そういうと博士はそれまでの饒舌がどこにいってしまったのかと思うほど口をつぐんだ。
そしてがっくりうなだれると身体を震わせて、大粒の涙がぽつりぽつりと落ちていった。

「博士…ありがとう…

…でも…難しいことはわからないけど…
彼が…
彼が生きていて欲しいと願う気持ちは博士のエゴではないの…?
それならば…
私は彼とアイハと一緒に時を過ごしたい…」

「…そうだよキキョウ。
それは私のエゴだ。
だけど私にとってはキキョウも大切な人間だ。
だから、キキョウの思うようにするよ。
君は…どうしたらいいと思うかな…?」

……

………

…………

「…何が正しいかはわかりません…
だからどうしたらよいかなんて私にはわかりません…
…だけど…
アイハとも話してみたいと思います…
あの子にとっての父親でもあるから…
もう少し…お時間をいただいても宜しいでしょうか…」

「…もちろんだ。
焦らず、ゆっくりと決めていこう。
ただ、最終的には君達の考えを最大限に尊重しよう。それは約束するよ」

「…ありがとうございます…」
ー帰り道。
大学内のポプラ並木を抜け、ふと今歩いた道を振り返ると研究室の窓から博士が私を見つめていた。

私は深々とお辞儀をして、大学を後にした。

博士には博士の思いがあった。
私には私の思いがある。

そして…アイハは何と思うだろうか。

私は家でアイハの帰りを待つことにした。

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