第93話 《キキョウ》8

次の日、私は朝から大掃除を始めた。久しぶりに家へ帰ってくる彼のために。

午前10:00ぴったりに彼は現れた。

昔から時間にきっちりしているのは変わらない。
真っ白なシャツにぴっちり線の入ったスラックス。
腕には私と付き合っている時に買ってあげたシチズンの電波時計を着けている。
いつもの彼のスタイルだ。
「おかえりなさいラブイズ」

「あぁ…おはよう。
アイハは元気かい?」

「あの子はいつもの調子よ。あなたはどう?ラブイズ…」

「あぁ…まぁまぁだよ…話はあれだろう?
マシンに入る話…」

「…そう…」

「…キキョウ…私はもう疲れたんだ…
あのマシンは私が作ったものだ。
私の棺桶にはぴったりだろう…?」

そう言うと彼は自嘲気味に笑った。

「やっぱり…
そんな風に考えていたんだ…」

「いや…そればかりではないんだ。
キキョウ。
私は私が生きてきた意味がわからないんだ。
ただ、私が生きてきた証であるあのマシンの証明こそが、私の生きる意味だと…そう思ったんだ…」

(私とアイハは生きる意味には値しないの?)
その言葉をぐっ…と飲み込む。ここで私が意見を言うと彼はたちまち不安定になることを私は知っているからだ。

「…そう…
あなた自身は今の状態から変えたいと思っているの?」

「出来れば変えたいと思っているさ。
時々どうしようもないほどに身体が震えるんだ。
そして頭の中が台風のように荒れ狂う。
そんな時、自分では自分をどうしても制御出来なくなる…

…そうして後に残るのは後悔と虚無感と自己嫌悪が入り雑じったような…
…そんな喪失感だけだ…」

「…そう…
よく聞いてねラブイズ。
私はあなたと暮らしたい。
あなたと一緒にアイハを見守っていきたいの。

だけど、あなたが不安定になるのも望まない。
あなたがあなたを傷付ける姿も見たくないの。

それは私のわがままかも知れない。

だからごめんなさい。
でもそうしたいの!」

「…キキョウ…
出来るなら私もそうしたい。
アイハの成長をそばで見守っていきたいんだ…!
でも無理なんだよッ!!出来ないんだッ!!」

…彼の左手首には真新しい包帯が巻き付けられていた。

ああ…また手首を切ったんだ…

私の心が段々暗く塞がれていくのがわかる…

必死に動悸を抑える為に私はロボットのようになる。

彼の側に近づく。
彼の震える姿に寄り添うように。
彼の左手にそっと手を重ねた。
そして
彼の震える背中をそっと撫で続けた。

「あああああああああ!
あああああああああ!」

彼が嗚咽混じりの叫び声をあげた。

何度その背中を撫で続けただろうか。

心を貝のように閉ざし、何度その背中を撫で続けただろうか。

…そうやって何十分後かにようやく彼は落ち着いてくる。

その後、私はコップ一杯のお水を彼に差し出す。

彼はポケットから精神安定剤を取り出すとそれを無造作に口に放り勢いよく水を飲む。

そしてまた、私は彼を撫で続ける。

そうやってややしばらく経つとやっと落ち着いてくる。

いつもの彼との生活。

こんなことがいつまで続くのかとぼんやり考える。

「…もう…イヤなんだ!
こんな発作じみた生活がッ!
薬に頼る生活がッ!

…キキョウ…

聞いてくれ…

マシンに入ることは悪いことばかりじゃないんだ…

この薬に頼りきった生活…

この身体を浄化する作用もある…

ナノマシンがホルモンや自律神経を制御することによって、身体から薬を抜くことも出来るんだ…

そうすれば少なくとも衝動的な発作は起こらないようにはなるはずだ…

キキョウ…わかってくれ…

薬に頼らなくてはならないこの身体から決別したいんだ…

脳も…
身体も…
心も…

入れ替えてみせる…!
だから…
わかってくれ…!」

「…そう…
わかったわラブイズ…
その代わり約束してちょうだい。
その機械に入るまでは、自分の身体を傷付けないようにって…」

「…ああ…約束するよキキョウ…
どっちにしろ、傷があるとマシンには入れないんだ…」

それだけを言うと、彼は押し黙ってしまった。

相変わらず彼は沈黙と衝動の狭間に生きている。

それがなくなるだけでもいいのかも知れない。

博士が言っていた「ラブイズはもうギリギリに見える」の言葉が今ならよくわかる。

このまま彼を支え続ける生活もいいかも知れない。

だけど彼はそれを望んでいない。

ーそれならば…
それならば彼の思う通りにさせてあげよう。

そう思った。

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