第125話 《逃避》6

博士の研究室に着くといつものコーヒーが用意されていた。

その香りに少し落ち着き、いつもの気持ちに戻ってきた。

「窓から私達が来るのが見えたから用意しておいたんだよ」と博士は言った。
博士なりの気遣いが感じられると共に、言い訳じみた言葉が相まって、申し訳なさそうに恐縮する姿が博士をさらに小さく感じさせた。

「…この度は…すまなかった…私が付いていながら…」

「いいえ、博士は良く彼を良く見てくれています。逆に彼がご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

「そうよ!いつもお騒がせなのはパパなんだから!おじいちゃんは悪くないよ」

「…すまないなぁアイハ、キキョウ。そう言ってくれると少し心が休まるよ…」

「それはそうとなんで彼は日本なんて…?」

「うん…そこなんだが…理由はわからないんだ…置き手紙も無し、言葉も無し…
ただ、考えられることはキキョウ、君の記憶と関係があるのかも知れない」

「私の記憶…?」

「イエス。彼がマシンに入る前に、君の日記と君の記憶について綿密にミーティングを重ねてマシンにインプットをしたのを覚えているかい?」

「ああ、私の記憶を彼が体験する為の…」

「そう、
そして彼がマシンに入る前に突然言い出したことが気になってね」

「彼が言い出したこと…?」

「そう…手術前、最後に言い残すことはないかと聞いたら、『心は脳だけで感じるものではない』と言い出したんだ。
私はそれが妙に気になってね。
東洋思想でそのような考えがあるのは知っていた。だから、彼がマシンに馴染む4ヶ月の間に少し使用を変えたんだ。
それでナノマシン『ブレーン』を脳だけでなく五臓と五感に配置した。
心臓、肝臓、肺臓、腎臓、脾臓、そして触覚、視覚、嗅覚、聴覚、味覚にね。
分かりやすく言うと、例えば心臓移植をした人が、なぜかドナーの記憶を持ってしまうことが世の中にはあるだろう?

未だ科学では解明されていないが、私は出来る手は全て打ちたかったんだ」

「おじいちゃん、それがなんでパパが日本に行く理由になるの?」

「うん、これは予想なんだが、ラブイズは記憶の混同著しい状態であったと推測出来る。
居なくなった家族が現れた安堵感の次に来るのはまた居なくなる恐怖、もしくはなぜ?どうなったか?という不安の増強、そして非日常が日常と裏表であった不信感だ。
それらを統合すると、マズローの言うところの『安心の欲求』『所属の欲求』の欠落からの衝動によるものだと推測出来る。
つまり故郷が恋しくなったんだよ。
望郷の念に駆られる。
そう考えれば今回の件にはとりあえず辻褄が合う」

「つまり、私の記憶がそうさせた…?」

「かも知れないという話だ。
どちらにしてもラブイズを保護して事情を聞く必要がある。
そこでアイハ…ラブイズを迎えに行ってくれるかい?」

「えっ私!?行く行く!」

「いや、あなたは学校があるじゃない。博士もむちゃ言わないで」

「休む!」

「『休む!』じゃない」

「キキョウ。一応考えを聞いてくれるかな…?

ひょっとしたらラブイズはすぐに帰ってくるかも知れない可能性も高い。
そうした時にキキョウが居ないとまた彼はパニックに陥る可能性がある。
アイハはすでに高校生だ。
ラブイズの記憶に大きいアイハの記憶は薄い。

ラブイズのアパートや所持品をそのままにしておいたのは、彼がスムーズに今の生活に馴染んでいく為に必要だから残しておいたものだというのは前に話をしたね。

キキョウ、
君が居ないとラブイズは何も始まらないんだ。
そう考えれば今回、アイハが彼を迎えに行くことはラブイズにとって最良の策と言える」

「だよね!」

「だから『だよね!』じゃないって!
彼にとっては良いかも知れないけど、あなたにとって良いとはママは思わないよ」

「なんで!?」

「あなたは学生だし、なるべくママは普通の生活をしてもらいたいのよ…
パパに振り回されるのはママだけで充分だから…だから…パパのことはママに任せて…」
「いーやッ!」

「言うこと聞きなさい」
「聞かない!」

「キキョウ…」
「博士は黙っていて!」
「あ…はい…」

「ママ…
ママの気持ち…私もわかるよ。だけど私の話も聞いて。

ママもおじいちゃんもパパも、メンドくさいんだよ。
考え過ぎてメンドくさい。
そうじゃなくて、パパが行きたかったんならいいじゃない。
けど今の状態は心配だから誰か迎えに行かなくちゃいけないんでしょう?
なら私が行く。
私だってパパが心配なんだもん。
それじゃダメなの?」

「…日本のおじいちゃんに頼みます」

「日本のおじいちゃんしてくれそうに無いと私思うよ」

「…」

「キキョウ…」

「…博士は黙ってて…」

「むぅ…」
「…なにさ…

なにさ…
…いっつも…

いっつも彼ばっかり優先してッ!!
たまには私の言うことも聞いてくれていいじゃないッ!
なんでもかんでも彼の事ばっかり!
私の思いなんてどうでもいいんでしょう!
もう嫌だ!
もう彼に振り回されるのは嫌なのッ!
私には私の人生があるの!
アイハだけは!
アイハだけは彼に振り回されない人生を送ってもらいたいのッ!!

ウッ…ウゥ…」

「…キキョウ…」

「ママ…ママ、分かった。
私のコトをそんなに考えてくれてありがとう。

…でもねママ。あの時言ったじゃない。『一緒にパパの面倒見ていこう』って。
今がね、その時だと思うの。
パパが起きて、また不安定かも知れない今がね。
だからね、パパ迎えに私行くよ。
ね?いいかな…ママ…」

ゆっくり背中を撫でながらアイハは私の顔を覗きこんだ。

そして鼻水と涙でぐずぐずになった私の顔をティッシュで拭ってくれた。

これじゃあ彼と一緒だ。

私、彼と一緒だ。
アイハが顔にあててくれたティッシュを受け取り、顔を上げてビィーッと鼻をかんだ。
ズビッと鼻をすすり上げる。
「よしわかった!アイハに頼むわ!」

「うん!任せてママ!」

「よ…よし、じゃあ頼むよアイハ…キキョウ…いいのかい…?」

「いいの!もういいの!私がぐずぐずしてちゃいけないものね!

私は待つ!
アイハは行く!
可愛い子には旅をさせろっていうしね!」

「OK分かった。それではそれでいこう。
ラブイズは7:20発の国際便で日本へ立ったようだ。
だいたい夜の8:00頃には向こうへ着く。
アイハ、君は出来るだけ早く準備をしても今からだと夜の10:00を越えるだろう。
だからキキョウ。どちらにしても君の父親に彼の保護とアイハの出迎えをお願い出来ないかな?
私もラブイズの話を聞いていた限りでは、彼だけのことでは君の父親は来てくれなそうだけれども、アイハがいるなら来てくれると思うんだが…」

「…電話してみる…」

携帯電話を取り出して父に電話をする。
プルルルルル…

「はい」
何年振りだろう。お父さんの声だ。
「お父さん?キキョウ。あのね…」と現状を説明するのに20分程かかった。父は一言、「わかった」と言った。

「何時だ?」

「んとそっちの朝8:00位には彼が着くと思う。アイハはその後10:00頃」

「わかった」

「じゃあ宜しくお願いします」

「わかった」

プツン。

「…ふぅ…」

「私、日本のおじいちゃんに会うのはじめて!」

「アイハそういえばパスポートは!?」

「それは今回は急ごしらえで作らせている。とりあえず写真の画像を送るから今撮ろう」

「えー!今ー!髪の毛ぐちゃぐちゃのジャージなのにー?」

「わかればいいんだ。ほら、こっちにおいで」

「うーん。ま、しょうがないか!」
博士に連れられてアイハが研究室の角で写真を撮られている最中、私は自分に落ち込んでいた。

あの日、彼とアイハと一緒に生きていくことを決めた自分がいた。
彼と生きていく覚悟を決めた自分がいた。

それなのに
それなのに私は彼に振り回される恐怖を拭えなかった。

彼が機械に入ってからの6年は彼を心配しながらも穏やかに過ぎて行った。

私とアイハと眠る彼の奇妙な生活は私に平穏を与えてくれた。

それが崩れる恐怖が私にはあった。
彼との生活のトラウマが奥深く潜んでいることを私は知った。

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