第三章  《キキョウ(30)》 -家族-

「わぁ!今日はすっごいいい天気!ママ見てー!」

「…はぁ、あなたはいつも元気ねアイハ」

「また溜め息ついてる!大丈夫大丈夫!パパにはわたしがついているんだから!今日だってほら、太陽だって祝福してるじゃない!」

「まぁそうね。あなたを見ているとなんだかそう思ってくるわね」

「ママだってたくさん悩んだんだから大丈夫!うまくいくわ!あ!パパの為のお花を買ってくるね!行ってきまーす!」

「あ!ついでに牛乳もお願いー」

「ぁぃ-」
もう扉の向こうにいるアイハの声が聞こえる。

「…もう、本当に誰に似たのかしら?ねぇラブイズ」

私は彼の写真に話し掛ける。今日は彼が例の機械に入る日。これまでサイトウ博士と何度も何度も話をさせてもらった。

『心配は山ほどある』と博士は言った。そして『それでもきっとラブイズならやってくれる』とも言ってくれた。

私の心配をよそに、博士の目には科学者としての顔もあったことを私は感じてしまった。彼の仕事のことはわからないけれども、彼と博士のした仕事が一つの決着をつけようとしている様子はわかる。わかるけど…
私は彼が心配。これを『愛』と呼ぶのかは私もわからない。だけど、彼を想うとなんだか胸が苦しくなる。彼の苦悩を一つでも私が代わってあげたいと思う。

アイハはいつも元気。
ただあの子も気丈に振る舞っているように見える。いつもあの子は「パパもママも考えすぎなのよ」と言う。正直あの子の明るさには救われている。

ラブイズ…私にはあなたの苦悩はわからない。わからないのが辛い。
あの子は「わからないのは辛くない!わからないのが辛いというママを見るのがわたしが辛い。だからわからなくていいの」と言う。
エキセントリックに聞こえるあの子の言葉に何か真実めいたものを感じるのはおかしいのかしら。

ねぇ、ラブイズ…どんなあなたでもいいの。
これは私のわがままなんだけど、出来るならまた3人で笑い合える生活に戻りたい…今はあの子があなたと私の分まで笑ってくれている。普通の家庭を歩ませることの出来なかったアイハに悪いと思っているわ。それを相談するあなたがいないのが寂しい。あなたがいないと思うことが寂しい。

ラブイズ…あなたは今日旅立つのかも知れない。あなたが決めた人生なら、私はそれを応援します。ただ、あなたがまた笑顔になれることを、心から祈っています。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

「…彼を…そのマシンに入れる?」

「イエス。
キキョウはどう思うかな?」

その日、私は博士の研究所の一室に呼ばれていた。

異国の地に暮らす私にとって、これまでにたくさん彼のことを相談し支えてくれたサイトウ博士は、もう一人の父のような存在だった。
彼の仕事のことはあまりよく知らなかったけど、なんだか脳科学の仕事だということは聞いていた。そして、今回彼が行うことを詳しく聞いてみても、専門的なことは難しくてよくわからなかった。
ただ、夢の中に閉じ込められる可能性があるということは理解出来た。

「それは…ちょっと…他の方法は無いんですか…?例えば…カウンセリングとか…施設に入るとか…」

「OK。
その線も当然考慮に入れていこう。ただラブイズはそのカウンセラー達の講師もしていたからね。なかなか素直に聞くとは正直思えないよ…
キキョウ…ラブイズは相当追い込まれているように私からは見える。
この状態が続くと、いつ自らの命を絶つかもわからない状況だと私は思うんだ。
…とても苦しい決断だと同情する。ただ…信じてほしい。彼の力、愛の力を」

「あの…とりあえず、家に帰ってもう一度よく考えてみます…」

「OK
ぜひそうしてみてくれ」

そしてその日は家に帰った。

「おじいちゃんとの話はなんだったの?」

家に帰るとアイハが屈託のない笑顔で聞いてきた。彼女は博士のことを親しみを込めて『おじいちゃん』と呼ぶ。

「…ああ、なんだかね、パパ、難しい検査が必要かも知れないって…」

「ふぅん」

そう言ったきり、アイハは何か考えている様子だった。

「あのさ、ママ。ママはパパにどうなってほしいの?」

「え!?それは元気になってもらいたいわ」

「アイハからみたらパパ元気だよ」

「いや…パパはちょっとだけ心が病気なのよ」

「そうなの?ふぅん…ちょっとパパにお電話してみる!」

「え!?あ!ちょ、ちょっと待っ…」
言い終わらない内にアイハは電話の短縮ボタンから彼に電話を掛けていた。

「あ!パパー!元気?うん、アイハも元気だよ!あのねパパ、なんで『むつかしいけんさ』するの?…うん…うん、ふぅん、そっか!わかった!あ、うん、ママにかわるね!」

「はいママ!パパ」

なんという手早さ!時に感心するほどアイハは真っ直ぐに生きている。恐る恐る電話に代わると、彼は落ち着いていたのか優しい口調だった。

ああ、良かった。
タイミングによっては不機嫌な罵声が容赦なく降りかかるからだ。メール一つ気を遣いながらではないと今は打つことが出来ない。

「…キキョウ。しばらくだね」

「ラブイズ…あなた…調子はどう?」

「…だるい…けど気分はまぁまぁだよ。少し横になっていたんだ」

「ごめんなさい…休んでいるところ…」

「いいんだ。ところでアイハの話だけど…」

「気を悪くさせてごめんなさい!つい口を滑らせてしまったの!子供に聞かせる話じゃないってわかってるわ!ラブイズ…」

「いや、いいんだ。サイトウから…話を聞いたんだね」

「そう…私…あなたが心配で…」

「大丈夫だよ。気にするなという方が無理かも知れないけど、大丈夫だ。
私は思うんだ…この現実と夢の狭間にいるような状態に決着を着けたいんだって…
それにあれは私が作ったマシンだ。良いところも悪いところも熟知しているよ。これでも一応まだ職員でもあるからね。仕事の締めくくりでもある…
だから…私はやるよ。キキョウ…」

「ラブイズ…ごめんなさい…私があの時育児ノイローゼになんてなったから…」

「…もういいんだ。またその話はよしてくれ!…じゃあまた連絡するよ。…もう今日は疲れたんだ…」

「急にごめんなさいラブイズ…」

「いいんだ…じゃあまた」

「ごめんなさいラブイズ…またね…」

受話器を置くと待ち構えたようにアイハが話し掛けてきた。

「ママ!パパね、元気になるためらしいよ!」

…まだ手が震えている。私は彼を愛しているのかわからない。けれど、どうしても気になってしまう。心配になってしまう。
友人は『共依存』だと言うけれども、私はそれがわからない。早く離婚するようにみんな言ってくる。けれど現実、経済的な状況もありそれも難しい。
何よりアイハの為に離婚はしたくない。離婚してもそういう家族の形があるのもわかる。けれど私はそれをしたくない。あの頃の彼の笑顔がまた見れるかも知れないという一縷の望みを捨てきれていない。
「ママ!聞いてるッ?!」

びくっとしてアイハを見ると膨れ顔をして怒っている。

「ママ、パパと話してるといつもあやまってるよね。きっとパパも困ってるよ」

…この子は彼に愛されているから気付かないだけだ。

それでも具合が悪いと露骨に不機嫌な顔でアイハを遠ざけることはあった…
「また考えてるッ!ほら、いっしょに公園に行こう!アイハ、なわとびのれんしゅうしなくちゃいけないんだ」

こうやって毎日アイハのマイペースに振り回されながら過ぎていく日々は正直有難いと思う。

「ママ行くよー!」

すでに玄関で靴を履いてしまっているアイハを、薄手のストールだけを持って急いで追い掛けた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

公園で縄跳び二重飛びの練習をするアイハを眺めながら、今までの生活を振り返っていた。

今回の治療で彼は本当に治るのだろうか…?

私は正直何をしても無駄だと思っている。最近はまた彼と別居を始めたのでそれなりには落ち着いているし、ひょっとしたらこのままの生活が一番いいのかも知れない。幸い彼は博士の好意もあり、研究対象の被験者で障害者枠の臨時職員として働いてもいるので収入も入れてくれる。私も保育士として働いているから、とりあえず食べるに困ることはないし…彼の収入は激減したけれども、前は貰いすぎだとも思っていたし。…私はただ家族3人で幸せに暮らしたいだけだし…

その瞬間、私が望む生活に彼の姿があることに気が付いた。
そうか、私は彼とアイハと幸せに暮らしたいんだ…そう思ったらすぅっと涙が溢れ落ちた。

この光景を眺める隣に彼はいない。私は彼とこの光景を一緒に眺めたいんだ…そっか…そうだったんだ私…

「あなたはどうしたいの!?」と何度も周りの人達から問われ続けていた。

私は今までそんなことを考える余裕すら無かった。彼との生活は毎日が戦争のような日々だったから…

今彼が離れ、家族で住むはずだった家に彼が居ないという現実が、なんだか心にぽっかり穴が空いたような、そんな空虚感があり…そして、本心では安堵感に包まれている。そんな複雑な心境だった。こんな穏やかな時間は、私には無かったように思える…

アイハは顔を真っ赤にしながら一生懸命に縄跳びに苦戦している。

「そっか…」

アイハは疲れたのかその場に座り込んでいた。肩でハァハァと息をしている。

「アイハ、貸してごらん」

「あ、ハァハァ、ママ、ハァハァ、ハイ!」

アイハから縄跳びを受け取ると、私は連続でX飛びを披露した。

「なにそれママすごいッ!」

瞳をキラキラさせながらアイハはこちらに釘付けになっている。

「ふふん。練習してごらん」

ハイと縄跳びを渡すと「こうかな?こうかな?」とぶつぶつ呟きながらX飛びの練習をし始める。

そのうち縄がこんがらがってアイハの身体を不自由にした。

「ママー」

泣きそうになりながら私に懇願の目を向けるアイハに近付き、縄をほどこうとするが、がんじ絡めになった縄はなかなかほどけない。

「あ!ちがう!足から、足からッ!」

「え〜ちょっと待って〜」

「あ〜もう!はやくとってよぉ〜!」

「アイハ、いっこいっこだよ。いっこいっこ取ってあげるから…あ!」

「なに!どうしたのママ!血でた!?血でた!?」

がんじ絡めになった心の糸も一つ一つほどいていけば、何とかなるのかも知れない―

彼の心を締め付ける糸はとても固く複雑に結びついている。だけど、一つ一つほどいていけば、必ずいつか解けるはずだ。難しく考えれば考える程、心の糸は絡まり、がんじ絡めに心を締め付けてしまう。
私は家族でこの光景を眺めたいだけだ。

彼とー
彼と一緒に。

目の前の固結びになっている縄を見ながら、私はそう心に決めた。

「ママー!なにしてるのッ!血ぃでたのー!?」

もがきながらアイハはようやく片足を脱した。

「もーだいじょぶじゃーん!びっくりさせないでよママー」

「あ…ああごめんねアイハ。こっちも取ろうね」

「早くしてよ!もう日がくれちゃう!」

「ごめんごめん」

ようやく縄がほどけると辺りは薄暗くなり始めていた。

「あ〜おなかへった!かえろ!ママ。今日のごっはんはなんだろなー!」

自由だ。
アイハの心は自由に天真爛漫に育っている。
毎日振り回されながらも縛られない心を私に見せてくれるアイハに私は救われている。いつか博士が言った、ラブイズの心を9才から解放させるとはこういうことなんだろうか?だとしたら、私には出来るかも知れない。
『心を解放させる』というよりは、幼い子供の気持ちについては保育士として生きてきた自負があるから。

彼とのこと…もう一度よく考えてみよう。

「ねぇママ!今日のごはんはなに!?」

「今日はね…うーん…アイハは何が食べたい?」

「グラタン!」

「またグラタン〜?」

「だってアイハすっきなんだもーん!」

「一昨日作ったばっかりじゃない」

「グラタン食べたいグラタン食べたいグラタン食べたい」

「じゃあ…グラタンにしよっか!」

「やったぁ!ママ大すきぃ!」

「…その代わり、明日は野菜炒めだからね!」

「な〜」

「野菜食べないと大きくなれないでしょ」

「ぁ゛〜」

その夜、私は彼と一緒にいる方法をたくさん考えた。

時に不安定になり、暴力や暴言を振るう彼とは一緒にいることが出来ないのは明白だった。適切な距離を取るのなら今の環境がいいと思う。だけど私は彼と一緒に暮らしたい。彼と一緒にアイハを見守っていきたい。その為には―…どうしたらいいんだろう。

彼は突然に出ていっていなくなってしまう。例え鎖で繋ぎ止めたとしても心までは繋ぎ止められない。良い時だってあった。いや過去を振り返るのは止めよう。これからどうするかだ。これからどうするか…

…彼との生活はこれからも自殺未遂と隣り合わせで生きていかなければならない。
それは病気を受け入れるということだろうか?そもそも彼は苦しんでいる。それを抱えたままでいいのだろうか?
時が解決してくれるのだろうか?
ほんの一瞬でも穏やかな時が過ごせればいいのだろうか?
そうなるとこれは私の問題となる。
ただ、アイハには我慢させたくない。父親の不安定な姿を見せたくない。
それは無理な理想なのだろうか?
それを求める私がエゴイストなんだろうか?
私が私の求める幸せを描いてはいけないのだろうか?
あぁ、いけない。考えが堂々巡りになる。

私は私の求める幸せを描いてはいけないのかな…いや、そんなことはないと思う。きっと人生の“過渡期”っていうものなんだと思う。私の求める幸せを、私は求める権利があると思う。私は私が幸せになる権利があると思う。その一つの方法が離婚という解決なだけだと思う。離婚の定義やその有効性は今はどうでもいい!私は彼と一緒に居たいんだから。

…一つ一つ、ほどいていこう。

彼は幼い頃に母親からネグレストを受けていた。
それがトラウマになり、私がアイハを可愛がる姿が彼にとって精神的苦痛になっていたのがはじまりだった。だから幼い彼の心を育む為に、一人暮らしをさせたり、ディケアに行かせたりもした。ところが心の不安定は増すばかりだった…

彼の心の不安定が育児放棄や家庭放棄、リストカットやOD(オーバードーズ・大量服薬)、不貞行為や暴力、暴言の引き金となった。

その根本は『不安』によるものだと思う。
でも不安を取り除くには、彼と彼の母親が、最初からの適切な関係を築くことが必要だ。

うん。そうか。

機械に入ることで、最初の記憶からやり直すことが出来るならいいかも知れない。

だけど…
彼がもし目覚めることが無かったら…
もし目覚めても変わっていなかったら…

…まずもう一度、博士と話をしてみよう。

もう私は迷わないから、きっと何か方法はあるはずだから…

そしてすぐに博士にメールをした。返信はすぐに来た。
明日の朝一で会ってくれるらしい。

…その日は遅くまで寝付くことが出来なかった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

「私、やっぱり彼と一緒に暮らしたいです」

開口一番、私は自分の想いを並べ連ねた。

昨日の出来事
アイハを二人で見ていきたいこと
彼との生活を望んでいること
ただ彼の精神的苦痛を取り除くには難しく感じること
彼の不安な心を取り除かないと私の願いを叶えるのは難しいこと
でもそれを私の人生で叶えたいことであること。

あまりうまくは伝えられなかったかも知れないけど、一つ一つ、噛み締めるように話をした。
その上で、どうしたらよいか相談したかったことを伝えた。

博士は途中で口を挟むことなく、ゆっくりゆっくり、一つずつ丁寧に話を咀嚼してくれた。

「…そうか…そうか、キキョウ…君も、辛かったな」

その言葉を聞いた途端、ぐぐぐ…と喉の奥が鳴り、我慢を重ねてきた私の心が溢れ、堰を切ったように涙が止めどなく流れ落ちた。

「…ゥ…ゥググ…ググ…
ワアァァァァアアッ!!ワアァァァァアアッ!!
ワアァァァァアアッ!!ワアァァァァアアッ!!」

悲鳴にも似た声をあげて、私は泣き続けた。
博士はじっと私を見詰めたまま、なんともいえない顔をしていた。

「…コーヒーでも淹れ直そうか…」

博士が席を立ってから、何回も何回もティッシュで鼻をかんだ。
少しして新しいコーヒーを持ってきてくれ、博士は私が落ち着くまで待っていてくれた。

「…たまに泣くのがいい。そんな時もあるさ」

熊のような大きな手で、私の頭をワシャワシャと撫でてくれる。博士から見たらアイハも私も同じようなものなんだろう。その顔はとても優しい顔をしていた。

「君の話は理解したよキキョウ。
なるほどわかった。私も君とラブイズが幸せに暮らすことを望んでいる一人だ。
まずは惜しみない協力を約束しよう。
ただ、いきなり残念なお知らせだが、幼少期からのやり直しは出来ない。
それは現在のラブイズが成人しているからなんだ。
このシステムは、現状の現実をほんの少しだけ、違った方向に向けることだけしか出来ないんだ。
いきなり大人の心を持った子供がいたら不自然だというのは理解出来るかい?
あまりに不自然な環境は、それこそラブイズの心を破壊してしまう。
だけど君は素晴らしいヒントをくれたよキキョウ。

『一つ一つ心の糸をほどいていく』

これだ。
結局糸をほどくのは我々には出来ない。
ラブイズ自身がやらなくてはならないことだ。
そして皮肉なことに、その糸のほどき方は彼自身がよく知っているはずなんだ。
それが『客観的』にね。
『客観』を『主観』に置き換えてやるとどうだろう。
つまり君が『ラブイズ』に、ラブイズが『君』になるということだ。

私とラブイズはこのシステムを作るにあたり、一つの仮説を立てて組み立てている。それは『正しい思考の方向性は正しい愛によって導かれる』というものだ。
正しい愛を形成する一つの要素に『思い遣り』が含まれていると我々はにらんでいる。

自己愛、いわゆるエゴが過ぎると自己を守るために周りを犠牲にする。ポイントの一つは環境だ。
通常、親から得られる惜しみない愛情を受け、人は成長する。
そして大人になると、受けた愛情を社会に還元し、その循環で世の中のポジティブなエネルギーは維持されている。しかし愛を受けなかった子供は、愛に気付かない、愛を知らない為に、無闇に愛を探す。それが、大人になってからもずっと探し続けてしまう。与える立場になっても、愛を知りたい、愛を得たいが為に、愛を奪うようになる。
母親が幼子に与える愛は遺伝子に組み込まれた程最高峰のもので、またそれは唯一無二のものだ。それにとって代わるものは世の中には無いだろう。だとしたら、次に知るべきは『大いなる愛』だという仮定が生まれた。

太陽があるから温かい
空気があるから息が出来る
地面があるから立つことが出来る

世の中の大いなる愛に気付くことが、心の成長に大きく関与しているということだ。

これは一つの宗教観とも言える。あらゆる宗教すべてに共通することは心の方向性を示している点だ。
宗教観を通じて、心を学び成長を促す。そしてその価値観の元に行動は作られていく。

我々が目指したものは、自らの意思でマインドをコントロールしていき、正しい方向性の行動をしていくことが出来るようになることだ。その為に必要なことは『体験』であるとあらゆる研究から導き出した。あらゆる争いは『お互いの正義』がぶつかり合う時に勃発する。

ラブイズにはラブイズの正義があり、君には君の正義がある。
そこには『自分の中の正義』を守るあまりに人を傷付けるという、間違った愛の方向性がある。そこに必要な心の成長として『思い遣り』が挙げられる。

相手の気持ちがわかり、相手に対する配慮が生まれ、自身を振り返り、周りを傷付けることのない心が生まれるのではないか…?ラブイズが君の立場になり、もしも思い遣りを含む愛を体感するとしたら…

その為の素養は彼にはあるのを私は確信している。
そうであれば、ひょっとしたら…うまくいくかも知れない。ただ可能性が10%から11%に上がるくらいだがね。でもキキョウ、その1%が非常に大きいんだ。わかるかい?」

「…でも…その機械に入ると目が覚めないかも知れないんでしょう…?」

「…その可能性は89%程あると言える。
ただ私は、個人的な意見を言えば確率論とはあくまでも様々な推測が生んだ統計的なパーセンテージなだけであるから、すべての確率は50%であるとも思っている。
つまり、起きるか起きないか、だ。

キキョウ…

50%の話をするならば、ラブイズがこの状態のままでいると50%はこの状況が続き、残りの50%の確率で自ら命を絶つだろう。もちろん私はラブイズの心の成長を信じている。このままでも後5年もすればまた状況は一変するかも知れない。ただ、現状ここまで症状が悪化している場合、通常の対症療法には限界があると思う。

私は認知行動療法が有効だと思い、ラブイズと一緒にそれを実践してきた。
それはある程度の効果を挙げ、とりあえず曲がりなりにも社会生活が歩めるようにはなった。

このマシンはその認知行動療法の最先端に位置するものだ。人間は知識と経験で成長する。

ラブイズは…ラブイズは私にとって息子のようなものだ。
彼が発症してから私はありとあらゆる療法を彼に施した。私にはもうこれが最後の方法だとも思っているし、また逆に彼はこのままでも良いとも思っている。

ラブイズが…彼がまず生きてさえいれば、私はいいんだ。ただ…私から見れば彼はもう限界に感じる。彼自身がこのマシンに入ることを望んでいるんだ。それはある意味自傷行為にも似た行動だとも私も思う。ただ…自ら命を絶ち、この世からいなくなるよりは…例え最悪、目が覚めなかったとしても、いつか目が覚めるかも知れないと、生きている彼をまだ見続けることが出来れば…」

そういうと博士はそれまでの饒舌がどこにいってしまったのかと思うほど口をつぐんだ。そしてがっくりうなだれると身体を震わせて、大粒の涙がぽつりぽつりと落ちていった。

「博士…ありがとう…でも…難しいことはわからないけど…彼が…彼が生きていて欲しいと願う気持ちは博士のエゴではないの…?それならば…私は彼とアイハと一緒に時を過ごしたい…」

「…そうだよキキョウ。それは私のエゴだ。だけど私にとってはキキョウも大切な人間だ。だから、キキョウの思うようにするよ。君は…どうしたらいいと思うかな…?」

……

………

…………

「…何が正しいかはわかりません…だからどうしたらよいかなんて私にはわかりません…だけど…アイハとも話してみたいと思います…あの子にとっての父親でもあるから…もう少し…お時間をいただいても宜しいでしょうか…」

「…もちろんだ。
焦らず、ゆっくりと決めていこう。ただ、最終的には君達の考えを最大限に尊重しよう。それは約束するよ」

「…ありがとうございます…」

帰り道。
大学内のポプラ並木を抜け、ふと今歩いた道を振り返ると研究室の窓から博士が私を見つめていた。私は深々とお辞儀をして、大学を後にした。博士には博士の思いがあった。私には私の思いがある。そして…アイハは何と思うだろうか。私は家でアイハの帰りを待つことにした。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

「ただいまママー!おやつ食べるー!」

帰宅してまっすぐに洗面所に向かい、鼻歌まじりで手を洗うアイハ。

まだ9歳の子にこんなことを話してもいいのだろうか…でもきちんと話さないとダメだと思う。

少し前にも彼の病気についてアイハに話したことがあった。けれど前は彼の現状を知ってもらう話で、今回は会えなくなるかも知れないという話だ。

だけど、話そう。これはアイハの人生にも大切な話だから…

いつの間にかアイハは戸棚からビスケットの袋を取り出して美味しそうに頬張っていた。

「ママも食べるー?」
最後になったビスケットを半分だけ残してアイハが差し出してくれる。

「ううん。アイハにあげる」

「やったぁ♪」

「あのねアイハ」

「なぁに?」

「パパね、また入院するかも知れないんだって」

「ふぅん」

「そしたらね、ちょっと難しいお薬を使うから、ひょっとしたらずっと目が覚めないかも知れないんだって」

「ふぅん」

「だからママどうしようかと思ってるんだ」

「どうしようって?」

「入院させるの止めようか、入院してもらおうか」

「なんで?」

「パパが目を覚まさなかったら嫌じゃない」

「でも入院しないと、病気治らないんでしょう?」

「それもなんとも言えないの。したからといって治るとはいえないみたいなの」

「えーなんでじゃあ入院するのー?」

「パパがしたいんだって」

「パパが…」
するとアイハは少し考えてから言った。
「パパがしたいならいいんじゃない?」

「でも入院したらずっとパパ寝たままになるかも知れないんだよ?」

「そこはママのキッスで目がさめるからだいじょぶだよ!ママで足りなかったらアイハもするし!」

「いやぁキッスじゃ覚めない感じだったよ」

「そうなのー?うーんそっかぁ。ぜったいおきないの?」

「絶対じゃないみたいだけど…」

「パパは入院したいんでしょう?なんで?あ!パパに聞いてみるか!」

「ちょっと!ちょっと待ってアイハ!まずは二人で考えてからママがパパに聞いてみるから!」

「あ、そうかぁパパの気もちが一ばん大事じゃない?」

うーん確かに…なかなか鋭い意見を突く。

「…わかった。まずはパパに聞いてみる」

「聞いてなかったの!?まずは相手の話聞きなさいってアイハいっつも先生に言われてるよ」

「そうかぁ…そうだよねぇ」

「そうだよママー。大人なんだからしっかりしてよー」

「アハハごめーん」

「あ!アイハなわとびれんしゅうしなきゃ!じゃあねママ!パパに聞いといてね!」

「あ!はーい!車に気を付けるのよ〜!」

「わかったー!」

バタン!と勢いよく戸を閉めてアイハは駆け出して行った。

まぁ当然よね。彼の話も聞かないと…ただ私は彼が怖かった。私はまだ彼から逃げていた。でも家族で一緒に居たいって決めたんだもん。頑張ってメールしよう。

……

………

『明日、話がしたい。』

たったこれだけの文字を打つのに10分もかかってしまった。

彼が家を飛び出してから、私との連絡を断ちたいと連絡手段を全てシャットアウトされてしまったことがあってから、彼に連絡するのを躊躇してしまう。その時はしばらくして博士が仲を取り直してくれたんだけど、どうもギクシャクしてしまう。

えいっ!と送信ボタンを押すとすぐに返信が来た。

『AMなら大丈夫。』

…とりあえず第一関門突破。
そうこうしている内にアイハが公園から帰ってきた。

「ママー!ばんごはんなにー!」

――――――――――――――――――――――――――――――――――
次の日、私は朝から大掃除を始めた。久しぶりに家へ帰ってくる彼のために。

午前10:00ぴったりに彼は現れた。

昔から時間にきっちりしているのは変わらない。
真っ白なシャツにぴっちり線の入ったスラックス。
腕には私と付き合っている時に買ってあげたシチズンの電波時計を着けている。いつもの彼のスタイルだ。
「おかえりなさいラブイズ」

「あぁ…おはよう。アイハは元気かい?」

「あの子はいつもの調子よ。あなたはどう?ラブイズ…」

「あぁ…まぁまぁだよ…話はあれだろう?マシンに入る話…」

「…そう…」

「…キキョウ…私はもう疲れたんだ…あのマシンは私が作ったものだ。私の棺桶にはぴったりだろう…?」

そう言うと彼は自嘲気味に笑った。

「やっぱり…そんな風に考えていたんだ…」

「いや…そればかりではないんだキキョウ。私は私が生きてきた意味がわからないんだ。ただ、私が生きてきた証であるあのマシンの証明こそが、私の生きる意味だと…そう思ったんだ…」

(私とアイハは生きる意味には値しないの?)
その言葉をぐっ…と飲み込む。ここで私が意見を言うと彼はたちまち不安定になることを私は知っているからだ。

「…そう…あなた自身は今の状態から変えたいと思っているの?」

「出来れば変えたいと思っているさ。時々どうしようもないほどに身体が震えるんだ。そして頭の中が台風のように荒れ狂う。そんな時、自分では自分をどうしても制御出来なくなる…そうして後に残るのは後悔と虚無感と自己嫌悪が入り雑じったような…そんな喪失感だけだ…」

「…そう…よく聞いてねラブイズ。
私はあなたと暮らしたい。あなたと一緒にアイハを見守っていきたいの。だけど、あなたが不安定になるのも望まない。あなたがあなたを傷付ける姿も見たくないの。それは私のわがままかも知れない。だからごめんなさい。でもそうしたいの!」

「…キキョウ…出来るなら私もそうしたい。アイハの成長をそばで見守っていきたいんだ…!でも無理なんだよッ!!出来ないんだッ!!」

…彼の左手首には真新しい包帯が巻き付けられていた。ああ…また手首を切ったんだ…
私の心が段々暗く塞がれていくのがわかる…必死に動悸を抑える為に私はロボットのようになる。

彼の側に近づく。
彼の震える姿に寄り添うように。
彼の左手にそっと手を重ねた。
そして
彼の震える背中をそっと撫で続けた。

「あああああああああ!あああああああああ!」

彼が嗚咽混じりの叫び声をあげた。

何度その背中を撫で続けただろうか。
心を貝のように閉ざし、何度その背中を撫で続けただろうか。

…そうやって何十分後かにようやく彼は落ち着いてくる。その後、私はコップ一杯のお水を彼に差し出す。彼はポケットから精神安定剤を取り出すとそれを無造作に口に放り勢いよく水を飲む。そしてまた、私は彼を撫で続ける。そうやってややしばらく経つとやっと落ち着いてくる。いつもの彼との生活。こんなことがいつまで続くのかとぼんやり考える。

「…もう…イヤなんだ!こんな発作じみた生活がッ!薬に頼る生活がッ!
…キキョウ…聞いてくれ…マシンに入ることは悪いことばかりじゃないんだ…この薬に頼りきった生活…この身体を浄化する作用もある…
ナノマシンがホルモンや自律神経を制御することによって、身体から薬を抜くことも出来るんだ…
そうすれば少なくとも衝動的な発作は起こらないようにはなるはずだ…キキョウ…わかってくれ…薬に頼らなくてはならないこの身体から決別したいんだ…
脳も…身体も…心も…入れ替えてみせる…!だから…わかってくれ…!」

「…そう…わかったわラブイズ…その代わり約束してちょうだい。その機械に入るまでは、自分の身体を傷付けないようにって…」

「…ああ…約束するよキキョウ…どっちにしろ、傷があるとマシンには入れないんだ…」

それだけを言うと、彼は押し黙ってしまった。相変わらず彼は沈黙と衝動の狭間に生きている。それがなくなるだけでもいいのかも知れない。博士が言っていた「ラブイズはもうギリギリに見える」の言葉が今ならよくわかる。このまま彼を支え続ける生活もいいかも知れない。だけど彼はそれを望んでいない。
それならば…それならば彼の思う通りにさせてあげよう。
そう思った。

その日の夜。
晩御飯を食べていると唐突にアイハが聞いてきた。

「そういえばパパ、なんて言ってたの?」

「え?ああ、パパね。やっぱり入院したいみたい」

「そっかぁ、パパがしたいんならいいんじゃない?」

「うん…そうね…」

「パパはなんで入院したいの?」

「うん…パパね、治りたいみたいなんだ」

「“わー!”てなるやつ?」

「そう、あれがね、辛いんだって」

「そっかぁ、あれ辛そうだもんね」

「うん…だから入院したいんだって…」

「ママは?うれしくないの?」

「うん…なんかね…難しい手術をするみたいでね…ママ心配なんだ…」

「うん。そうだよねぇ。パパ、ママに甘えてばかりだからなぁ」

「アイハは?パパのことどう思う?」

「アイハはね!パパ大すきだよ!だから、おっきくなったら今度はアイハがパパのめんどうみるの!そしたらママ少し休めるでしょ!」

「アイハ…」

「だからね、アイハどっちでもいいんだ!
パパがしたいことしたらいいと思うよ。だってアイハもなわとびしたいからしてるんだもん。なわとびしたらダメっていわれたら悲しくなっちゃう。
だからね、パパが悲しくならないように“していいよ”って言ってあげるの。ママもそうしなよ!」

「…パパでも入院したら、ずっと出てこれなくなるみたいだよ…」

「どれくらい?」

「わからない…ずっと…たくさん…」

「そしたらアイハその間に大きくなるからだいじょぶだよ!ママとアイハでかわりばんこにパパのお世話しよ?」

「いいの…?それで…」

「うんいいよ!ママは?」

「ママは…本当は嫌かな。だってパパがいつ目を覚ますかわからないんだもん」

「そしたらさ、キッスしたらいいよ!パパにキッスしたらぜったいおきるよッ!
アイハがほっぺにするから、ママはお口ね!」

「いや〜起きるかなぁ?」

「ぜったいおきるよッ!ゆびきりしてもいいよ!ゆびきりしてもいいよ!!」

「や〜指切りはいいよ〜」

「ママゆびきりしよう!」

「え〜?」と指を差し出すとアイハは指切りの形を作って歌い出した。

「ゆーびきーりげんまんうっそついたらはり3ぼんのーます!ゆびきった!」

針3本はラブイズの言葉。
日本語の『千本』をラブイズが『3本』で覚えてアイハに教えた為、うちの指切りは針3本になっている。
ムダにちょっと飲めそうな数でコワイとラブイズと二人で笑った記憶がある。

「じゃあパパ起きなかったらママが針3本飲ませて起こそうか?」

「ママ…ねているときに、はり3ぼんはやさしくないよ…」

「あ…そ、そうね!ていうか冗談よ、も〜!」

「あ〜じょうだんか〜ママごめんごめん」

「ははは…あ〜ぁ、アイハには参るわ」

「ママいっつもそれ」

「ハイハイごめんごめん」

「“ハイ”は一回でいい」

「ハイ!ごめんなさい!」

「いいよ〜あのねママ」

「なぁにアイハ?」

「パパのこと二人でめんどう見てこ?」

「そうね…二人で見てこっか」

「うん!アイハね、お医者さんになってパパ治してあげるの!」

「あ〜じゃあピーマンたべなきゃ大きくなれないぞ〜!」

「げげ!しまった!」

「はい食べる〜」

「む〜ぅ…」

アイハがピーマンと格闘している間、彼女の言葉を考える。

アイハは見守ってほしいなんて思っていない。
逆に彼の面倒を見ることを考えていた。それどころか私のことまで考えていた…彼と二人でアイハを見守りたいのは私のエゴだったかも知れない。例え彼が目覚めることがなかったとしても、アイハの負担になることは今よりかは少ないだろう。研究所にいれば博士もいてくれる。よしんば目覚めて、薬要らずの生活に彼がなれば尚良し。もし変わらなかったにしても、今とはそんなに変わらないだろう。変わらない彼に対して、変わって欲しいと私が望むことは出来るけど何も変わらない。変わりたい彼に対して、寝たきりは嫌だと私が望むことは出来るけど何も変わらない。
ならば、変わりたい彼に対して私は何が出来るんだろう。

きっとそれはやっぱり見守ることなんだと思う。私には見守ることしか出来ないんだと思う。アイハを見守るのと同じように、彼を見守ろう。そう考えた。

その日、アイハはいつもなら残すピーマンを全て平らげた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

「…という訳で彼を見守っていくことにします」

ここ数日の思いを博士に聞いてもらった。
博士は何度も何度も、それでいいのかい?悔いは残らないかい?と聞いてくれた。

アイハと二人で彼を見守ること。
彼と二人でアイハを見守ること。
その二つは似て非なるものかもかも知れない。だけど家族という枠の中で、家族で支え合うことになんら変わりはないと思う。私が望むものは家族との幸せな生活だから。なるべく3人でいることが私が望むものに必要なんだと今は思う。それが『愛』と呼べるものなのか私の『エゴ』なのかはわからない。
そう言った後、博士はそっと口を開いた。

「…我々の最大のテーマは『正しい愛による思考の方向性』を見極めることだ。では『正しい愛』『間違った愛』の定義とはなんだろう?
相手のことを思う思考が正しい愛だとしても、それは全て自我が考えていることだ。
考え方の方向転換をしてみると、自我から愛は発信されるとも言える。
全ての思いは自我から発信される。
だからといって、全ての自我の思いを利他に向けることは出来るのだろうか?
全ての自我を利他に向けてしまうということは、例えば自分の仕事で得た賃金を全て他人にあげてしまうようなものだ。すると自分の生活はたち行かなくなる。

私は50:50なんだと思う。
自分の心と相手の心。両方を大切にする心が基盤として必要なんだと考えている。

それが出来なくなってしまい、自己だけを守る発信をしてしまうのが、ラブイズを始めとする様々な人の抱える難問と、その周りの人が抱える苦悩に発展してしまうんだと私は思うんだ。

…キキョウ

君は50:50の心を上手に持った素晴らしい人間だよ。悩むことはない。
一応私だってこの世界の権威なんだからね!
だから大丈夫。
君の思考の方向性は正しいと私は思うよ」

相変わらず難解な博士の話は少し面倒臭いけど、私を慰めてくれようとしてくれているのはわかる。

ラブイズもそうだけれども、なんでこの人達は面倒臭い言い方をするんだろう。…でも私はそんな博士が好きだ。難解な話を一生懸命話してくれる博士が好きだ。
「うふふ…」

「キキョウ…?」

「ああごめんなさい!博士、いつもありがとう」

「ああ…いいんだよ。
ではラブイズが入るマシンについてだけれども、君の思考を理解する為にも君の協力が必要になる。連絡していた君の日記は持ってきてくれたかな?」

「はい、こちらです」

バッグの中から一冊の日記帳を取り出した。
ここにはラブイズが不安定になってからの5年間の私の苦悩が綴られている。

「グッド。
それでは改めて今回の流れを説明しよう」

「博士」

「なんだい?」

「分かりやすくお願いします」

「…むぅ…
…そうだね…まぁシステムについては前も話したしいいだろう。
ようは、ラブイズが発症してからの5年間を、君の立場から経験してもらう。
そして、その思考の方向性がどうなるのか。それをナノマシンと人工知能の連携により解析していくことになる。
ただ、初めての試みだから万全を期して、ラブイズと人工知能の連携は今回は完全に分けることにする。生命活動に必要なナノマシンが人工知能の解析作用によりどんなイレギュラーが起こるかわからないからね。
つまり、ラブイズはラブイズ。解析は解析の別で行うということだ。これにより、ラブイズの生命維持だけに注力することが出来る。まずはそこが重要だ。

ラブイズが経験する内容は、君の日記を元にナノマシンにプログラムする。
ただ、そのまま君の生活を当てはめることは出来ないから、ほんの少し、現実も踏まえた改変を加えることにする。
まずはラブイズは母親との関係が根底にあるからこれを加える。体調不良になった君を、ラブイズと彼の母親の二人で支えていくようにするんだ。これにより親子関係の修繕が見込まれる。
最初に機械に身体を馴染ませる期間が4ヶ月かかるとして、そこから5年少しの物語があるから、単純計算で6年くらいはマシンに入ることになる。
それから後は未知数だ。
そしてもう一つ、各ナノマシンと外部からの電気信号により、少しでも筋肉が落ちないように維持していくが、それでも物理的な運動よりかなりの機能低下が見込まれる。なので今、ラブイズにはトレーニングジムに行って熱心に筋トレに励んでもらっているよ。ウェイトも強化しなければならない。
元々はマラソンで鍛えていたので筋肉はつきやすい体質のようだから間に合うだろうがね。とりあえず筋肉、ウェイトともに20%アップを目標に順調にこなしているよ。それでも生命の危険が示唆されればすぐに中止させるような処置は取る。
ここまでで何か質問はあるかな?」

「あの…彼には会えるんですか?」

「彼は完全な無菌室と完全な静寂の中に保管される。だから会うことは出来ない。ただ、マシンのモニター越しに彼の顔を見ることは可能だよ。」

「そう…そうですよね…少しでもアイハと彼に会いに行きたかったから…」

「そうだね。本当ならば職員以外は立ち入ることが出来ないのだが、君達はいつでも彼に会えるようにしておくよ。
キキョウ…
いつでもアイハと会いにおいで…」

「…博士…ありがとうございます…」

「逆に…すまなかったね…君にさらに辛い思いをさせるようなことをして…」

「いや…アイハと二人で決めたことですから…」

「そうか、わかった」

…それから幾日かして、今回の研究に対する説明書と同意書が送られてきた。その分厚い説明書を見ることはなく、ただ同意書にサインをして、博士宛に手紙を書いて同封し送り返しておいた。

程なくして博士から彼が機械に入る日がメールで送られてきた。

そして彼と会う日を決めた。
ひょっとしたら彼と会えるのがこれが最後になるかも知れないから…

――――――――――――――――――――――――――――――――――

「ねぇパパ何時に今日来るのっ!!」

「昨日から言ってるじゃない。もう来るわよ」

「えー!まだ来なーい!パパ早く来ないかなー!アイハね、二重とび見せるんだ!出来るようになったんだよ!」

「ただいまー」

「あ!パパ!おかえりパパー!あー!なにそれー!」

「ふふふ…君達にプレゼントだ!」

「えー!やったー!ママー!パパプレゼントだってー!」

「えー!なになにー?」
キッチンから顔を覗くと、前と変わらない彼がそこにいた。

「…ただいまキキョウ」

「おかえりラブイズ…」

久しぶりに見る彼はなんだか身体が一回り大きくなって精悍な顔つきに変わっていた。なんだか少し若返ったように見えてドキドキした。

「ねぇねぇパパ!開けていい?」

「いいよ。見てごらん」

「えーなにかなぁ!」

「君も開けてごらんよ」

「やだー何かしらー?」
一心不乱に包み紙を開いていくアイハ。

「きゃーっ!うで時計!アイハほしかったんだー!ありがとうパパ!!うーれしーい!」

「私も腕時計だ…」

「君の時計ももうベルトの部分が古くなっていただろう?アイハもそろそろ自分の時計があった方がいいと思ったし、ちょうどいいと思って…」

「ありがとうラブイズ。とても嬉しいわ…」

前の時計は彼が付き合い始めに買ってくれた時計だった。

とても可愛くてお気に入りでずっと付けていたものだった。

「君が前にあげた腕時計をすごく喜んでくれたのをふと思い出してさ。なかなか私達もいい年齢になってきたし、今の君の格好に合うものと思ってね。」

彼は照れくさそうに頭をかいてそう話してくれた。

「アイハつけるアイハつける」

「あはは…左腕を貸してごらん」

彼が優しくアイハの腕に時計を付けてあげた。一番小さく留めてもまだぶかぶかで細いアイハの腕で、腕を上げたり下げたりしているとくるくると回っている。

「どうパパ!?ママ見てー!」
キラキラした瞳で彼と私と時計をくるくるくるくる見続けるアイハ。

「はは…良く似合っているよ。キキョウも腕を出して」

「ありがとうラブイズ…アイハ良かったね。」

「うん!大切にするね!パパ!」

「ありがとう。ほらママのも素敵だろう?」

「あー!すてきー!すてきー!」

文字盤に小さな宝石が埋め込まれた、本当に素敵な時計。キラキラ輝いていて、まるでアイハを思わせるような時計だった。

「…ほら…一応結婚して10年になるだろう?こんな私でも曲がりなりに家族で居てくれていたから…せめてものお礼だよ。」

居てくれて『いた』という過去形の言葉が心を曇らせていく。

「どうだい…キキョウ?」

「…ありがとうラブイズ…とっても嬉しいわ!」

今日、家族で居られるのは最後かも知れない。だから少しでも笑って今日を過ごそう。そう心に思った。

「あ!パパー!公園行こう!公園!アイハ、二重とび出来るようになったの見てー!」

「おお!いつの間に出来るようになったんだい!?よしじゃあ行こうか」

「準備は出来てるわよ。今日は公園に行こうと思って朝から張りきっちゃった!」
ジャーン!とサンドイッチを詰めこんだバスケットを高々に上げて彼とアイハに見せつける。

「ママえらーい!ねぇパパ!ママねー朝からがんばってたんだよー!アイハもお手伝いしたんだよ!へへ!」

「おーそれは楽しみだなぁ」

「えへへ〜じゃあ行こうか!」

「行こー!」

「よし行こう!」

少し遠い、いつもより広い公園まで車で向かう。

彼と何度も行った公園。アイハを連れて何度も行った公園。
家族の思い出の公園。そこに着くまでの間、アイハは最近の学校での出来事を彼に色々教えていた。その姿をバックミラー越しに見ながら、私も笑って3人で会話をした。本当に久しぶりの家族での団欒だった。

公園に着くとアイハは一目散に縄跳びを持って広場へ掛けて行った。後を追って彼と私がついていく。

「パパー!見ててねー!」

しゅたん、しゅたん、しゅたん、しゅたた、びーん。

「もっかい見ててー!」

しゅたん、しゅたん、しゅたた、びーん。

「あ〜もっかい!」

しゅたん、しゅたん、しゅたん、しゅたん、しゅたたびーん。

「ああッ!」

「アイハー!落ち着いてー!」

「ハハハ頑張れアイハー!」

彼と二人、アイハのすぐそばの芝生に腰を下ろして彼女を応援する。

…しゅたたん!しゅたたん!

「できたー!見たー!?」

「おー!見てたよー!すごいなアイハー!」

「えへへー♪もっかいやるから見ててねー!」

…彼は目を細めながら愛娘を見守っている。
私は彼と一緒にアイハを見守る。図らずも私のささやかな夢が叶ってしまった。
ずっと…
ずっとこんな日を夢見ていた。

一回り太くなって筋肉質に引き締まった彼を見ていると、なんだか出会った頃を思い出す…ずっとこのままでいられたら…だけど、これは彼の決意による一時的なものだとも感じる自分もいる…ふと彼を見ると、神妙な面持ちでアイハを見詰めている。

「…どうしたの?難しい顔をして?」

「あ、ああ…きっと君と同じことを考えていたよ」

「同じことって?」

「もっと早くこうなっていられたらなって…『健全な肉体に健全な心は宿る』ってね。最近、調子がいいんだ。だけど、この安定はマシンに乗り込む決意からによるものだから、限定的なものだとも思う」

「…例えばずっとトレーニングを続けてこのままでいられないの?」

「うん…今考えていたのだけど、やっぱりそれは無理そうだ。
思考の原点にマシンに乗るという考えがあり、そこからの方向線上に筋トレという行動からある。
それをこの生活を維持する為に筋トレを続けていくという思考にはどう未来を模索しても、段々年をとるごとに落ちていく筋肉に歯噛みをし、不安定になっていく自分しか想像出来ないんだ」

「それでも、35歳を過ぎたら気持ちは落ち着くかも知れないんでしょう?」

「それは可能性の話だからね。現代社会は非常に進歩のスピードが早い、それに踏まえて病状の期間が伸びていくかも知れないと言う研究報告も出ているんだ。不確定な未来に不安を抱いて不安定になるより、私は私の意志で私の未来を決めていきたい」

「でも…」

「もう止めよう。せっかくの家族水入らずじゃないか。大丈夫、うまくいくよ。心配しないで。ほら今だってこんなに元気になったんだ!決めたことだから…だから信じてほしい」

「ラブイズ…」

「パパー!ママー!見てたー!?」

「おー!見てたよー!すごいなアイハ!どれ!パパに貸してごらん!」

彼は立ち上がってアイハから縄跳びを受け取ると、軽く縄跳びを始めた。そしてその内、シュタタタタタタタタタ!とまるでボクサーのようにその場で走りながら縄跳びを始めた。

「パパすごーい!ねぇ!もっかい見せて!もっかい見せて!」

「ハァハァ、もう一回?どぅれ!」

シュタタタタタタタタタ…!

「早ーい!パパ早ーい!」

「ぬおおおおおおッ!!」

顔をしかめて真っ赤にしながらアイハのリクエストに答える彼を見ていると昔を思い出した。

負けず嫌いで
格好つけで
真面目で
我が強くて
優しくて
一所懸命で
温かくて
繊細で
泣き虫で

たくさんの彼を私は知っている。

…子供特有のしつこいリクエストに懸命に答える彼がへたばりながら、私に手招きをする。

「あ!ママあれ見せて!あれ!」

「あれー?いいよー!」

そして私は二人の前でこの間アイハに見せたあのX飛びをお披露目した。

「ママもすごーい!パパ!あれ!すごいしょ!」

「おー!キキョウ!やるなぁ!」

しゅたん、しゅたん、しゅた…「終〜了〜」
新体操のようにバンザイのポーズを決め、ちらりと横目で二人を見るとパチパチパチパチ拍手をしてくれた。

アイハはちゃっかり彼のお膝元をキープして座っている。

「じゃあ…このままお弁当にしよっか?」

「たーべるー!」
「じゃあ食べようか」

その場に敷物を広げて3人で座る。彼と、アイハと、私。並んでサンドイッチを頬張り、公園の景色を見る。…様々な幸せそうな家族の姿が目に入る。私達も今日、その中の一員になれた。それがなんだかほっこり胸が温まっていく感じがして、知らないうちに涙が溢れ落ちた。

「あ〜ママ泣いてる〜!」

「あれ?目にゴミが入ったかな?」

「…大丈夫かい?」

優しく彼が話し掛けてくれた。
静かで…
響きのある彼の声。私の大好きな彼の声。今日のこの日を私は忘れない。

この温かい気持ち
彼の言葉
アイハの言葉
彼の息遣い
アイハの天真爛漫さ
心地良い風
優しい陽の光
青々とした芝生から溢れ出るような新緑の匂い
家族の温かい空気…
…忘れない。

またこの気持ちを重ねていく為にも…そう心に刻み込んだ。

「あーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
帰り間際になり、突然アイハが大きな声を上げた。

「パパからもらった時計がないッ!!」
「縄跳びの時に落ちたんじゃない?」
「探せばすぐ見付かるよ」

すぐに周りを3人で探してみたが見当たらなかった。

「アイハの時計…アイハの時計…パパからもらった時計…」
アイハはすでに泣きそうになっていた。

「…大丈夫。パパとママが見付けてあげるから…」
そう言うと彼はアイハを抱き上げ、歩き出した。
「行こうキキョウ。そんなにあちこち歩いた訳じゃない。歩いた道を探し続ければ出てくるはずさ」

帰り道、3人で歩いた公園をまた歩き戻り、隅々まで見回して探した。

「ないよぅ…パパからもらった時計…」
「大丈夫!絶対に見付かるさ!」

途中にある公園の管理事務所に問い合わせたが、拾得物の届け出は無いとのこと。駐車場まで戻り車の周りを皆で探していると、いよいよアイハがぐずってきた。彼がアイハをまた抱き上げるとアイハは「あー!あれはー!?」と声をあげた。

「何?見付かったかい!?」
「あれー!あそこあそこ!」

ふと公園入口の駐輪場を見ると、なんだか時計らしきものが落ちている。

アイハが駆け足で向かう。
その後を彼と私が追い掛ける。

そこまで辿り着くと、アイハはその小さな肩を震わせてしゃくりあげて泣いた。

「ひぐ…ひぐ……ぅぅぅ…うわあぁぁぁぁぁん!うわあぁぁぁぁぁん!」

足下を見ると、そこにアイハの時計があった。
踏みつけられて文字盤が割れたアイハの時計がそこにあった。

彼はひざまづき、アイハをそっと抱き締めた。

「…また…買ってあげるから…」
「イヤだッ!これがいいッ!パパがえらんだくれたこれがいいッ!!」
「…そうか…そうだよね…よしよし、じゃあママに言って時計屋さんで直してもらおうか」
「私は嫌ッ!!」

びっくりして彼とアイハが私を見上げた。私も泣いていた。
「…あなたが…あなたが直してあげるの…私じゃなくて…あなたが直してあげるのッ!!」

「…わかったよ…じゃあこれからその時計屋に行って…」

「ダメ!あなたが帰って来てから直すのッ!今日は家族で一緒に居るのッ!ぅぅぅ…ぅぇぇぇぇん…ぅぇぇぇぇん…」

「…キキョウ…」

「ぐずっ…ぐずっ…ママ…ごめんなさい…」

「ぅぇぇぇぇん…ぅぇぇぇぇん…ぅぇぇぇぇん…ぅぇぇぇぇん…」

彼はアイハを抱き上げながら、私を抱き締めてくれた。

「…わかったよ…キキョウ…そうしよう…」

夕暮れ時の帰宅する人達が私達の周りをすり抜けていく中、しばらくその場で彼は私とアイハを抱き締め続けた。

帰りの車の中、アイハは彼と時計を直してくれる指切りげんまんをしていた。
「パパ!約束やぶったら針3本だからね!」
「わかったわかった」
苦笑いを浮かべながら彼はアイハに笑顔を向けている。

「あ!ママー!今日のばんごはんなにー!?」

「うん。今日はアイハの好きなグラタンよー」

「やったぁ!パパグラタンだって!パパもグラタン大すきでしょう!?」

「ああ、大好きだけど、少し遅くなったら外食でもしようか?」

「大丈夫。仕込みはもう済んでるから。たまの家族3人じゃない。あなたも忙しいんだし、お家でゆっくりしましょう」

「…キキョウ…有難う…」

…彼からの『有難う』がこんなに身に染みる…心が少し温かくなってなんだかほんわかする。そんな一言で私は嬉しくなってくる。

「あなたの好きなワインも用意したの!」

「ああ…ごめん…アルコールは今はだめなんだ…」

「あらそうなの!?ごめんなさい気付かなくて…」

「いや、いいんだ。言ってなかったから…」

「じゃあさ!パパ一緒にオレンジジュースにしよう!」

「ああオレンジジュースにしようか」

「ママも!ママもいっしょ!」

「あーじゃあママもオレンジジュース付き合うか!」

「やったぁ!オ・オ・オ・オレンジジュースゥグ・グ・グ・グラグラタンタン!オ・オ・オ…」
アイハのオリジナルソングが車の中に響き渡る。

帰宅してすぐに晩御飯に取り掛かる。アイハは彼に付きっきりで学校の係のことや、嫌がらせをしてくる男の子の話をしている。ちょっぴり本気で「それはその男の子がいかん!」と怒っている彼が微笑ましい。

「グラタンが焼けるまで少し時間が掛かるから、その間に二人でお風呂に入ってきなさいー」

「あ!はーい!パパいこッ!それでねぇ…」
「うんうん…」
少しすると浴室から二人の楽しそうな声が聞こえてきた。

料理の下ごしらえが一段落し、ソファに腰を下ろす。浴室からはアイハの矯声と彼の笑い声が聞こえる。ふと視線を落とすとテーブルの小さな箱の中にアイハの壊れた時計が丁寧に納められていた。

時が止まったままの時計…

私じゃなくて彼に直して欲しかった。
今日じゃなくてきちんと帰ってきてから直して欲しかった。
なんだか今日という日が幻のような気がして…
約束があれば、少しでも彼が覚えてくれていれば…ほんの些細なきっかけでも彼が戻って来てくれる理由が欲しかった…

「あーきもちよかった!ママも入りなよー!」

頭からバスタオルを巻き、アイハがお風呂から上がってきた。

「あらパパは?」
「もうすぐ上がるってー」
「そう。そういえばパパのバスタオル場所わかるかしら?」
一人言のように呟きながら浴室に行った。

磨りガラス越しに彼に話し掛けた。

「バスタオルここに置いとくからね〜」

返事がない。

心臓がドキドキ音を立ててどんどん大きく鳴り響いていく…うまく…呼吸が出来ない…また彼は不安定になっているんじゃないだろうか…私は大きく深呼吸を一つして、そっと浴室の扉を開けて中を覗き見た。
そこには…そこには湯船で項垂れている彼の姿があった。

「ラブイズ…?」

「あ…あぁどうしたんだい?キキョウ」

「ごめんなさい。呼んでも返事がなかったから…」

「あぁ…ごめんよ…ちょっと考え事をしていたんだ…」

「ううん、私の方こそごめんなさい」

「いや…いいんだ…どうかしたのかい?」

「あ、バスタオルね、ここに置いとくから…」

「あぁ有難う。私ももう上がるよ」

そう言って立ち上がった彼の身体は見事に引き締まっていた。

「…あぁ、ずいぶんと痩せただろう?薬を飲まないとどうも食欲もわかなくてね。でもずいぶん身体も軽くなったんだよ」

確かに引き締まってはいた。けれども、そういえば顔もずいぶん痩けてしまっていた様子に感じた。ひょっとしたら彼も無理をしていたのかも知れない…

「…いつまで見ているんだよ…恥ずかしいだろう?」
「あぁ!ごめんなさい!」
ハハハと彼は笑いながら浴室を後にした。

「ママーごはんまだー!?」

「あ!今すぐ用意するねー!」

「パパ!パパのためにオレンジジュースよういしといたよ!」

「お!気が利くなぁアイハ。有難う」

「いやいやいやいや」

「ごめんね〜さぁ皆でご飯食べよう!」

「わーい!」

「おぉ美味そうだな」

「ここ大きいからあげはパパにあげる。アイハとってあげる」

「お!有難うアイハ」

「ママもはい!」

「あら有難う。どう?ラブイズ美味しい?」

「あぁ美味いなぁ。相変わらず君は料理が上手だな」

「良かったぁ!」

「ママのグラタンってホントにまほうみたいにおいしいよ!」

「そうかなぁ?でも嬉しいなぁ」

「アイハも作れるようになるといいな。パパに食べさせておくれよ」

「うんわかった!パパのためにグラタン作れるようになっとくね!」

「おお、約束だぞ」

「うんまたやくそく!ゆびきりしよう!」

そうやって楽しい時間は過ぎていった。そして夜。

「…ようやく寝付いたよ。アイハよっぽど楽しかったようだね。寝る間際までずっとあなたと話した内容を話してたよ」

「君もお疲れ様。今日は楽しかったね」

「あなたこそ疲れたでしょう?今日は泊まっていけるの?」

「あぁ…うん。泊まっていこうかな…」

「だいぶ疲れちゃった?もう寝る?」

「いや…まだ大丈夫だよ…キキョウ」

「なぁにラブイズ?」

「今まで本当に有難う」

「やだ…何言ってるの…?」

「いや…今日、伝えておこうと思って…」

「帰って…来るんでしょう?」

「そうだ…約束したからな…でも…現実はわからない…だから…」

「必ず帰って来て」

「あ…いや…だから…」

「必ず帰って来て!」

「あ…はい…」

「ぜっったい帰って来ないと許さないんだからッ!」

「…キキョウ…」

「…許さないんだもん…許さないんだもん…」

仁王立ちのまま、顔を上げずに彼に言い放った。涙が床に音を立てて落ちていった。

「…約束…したもん…!約束…したもん…!」

「…キキョウ…」

彼は立ち上がって、私を優しく抱き締めてくれた。

「…うぅ…ぇぇぇぇん…ぅぇぇぇぇん…ぅぇぇ…ぇぇん…ぅぇぇぇ…ぇん…」

彼の匂い
彼の体温
彼の息遣い

全部、全部これで最後かも知れないなんて考えるだけで胸が張り裂けそうだった。

アイハと彼とずっと3人で一緒に居たかった。
ずっと彼と二人でアイハを見守っていきたかった。
家族の生活を、
今日みたいな幸せな家族の生活を、
ずっとずっとしていたかった。

彼がいなくなるなんて嫌だった…彼がいなくなるなんて嫌だった…!

「…キキョウ…ごめんな…」

ややしばらく私は彼の胸で泣いた。そうした後、今度は彼が震えだした。

「う…!ぅぅぅぅ…う…!」

見上げると彼も泣いていた。

「ぅ…ぅぅうぅ……う…!」

止めどなく流れ落ちる涙と鼻水と涎となんだかいろんな液体が私の頭に降り注いできた。

「ぐ…ぅぐぐぅ…ぐぐ…ぐ…」

ガタガタ震えながら、彼も私に抱き付いて歯を食い縛りながら泣いていた。その内二人とも床に座り込んだ。

そしてそうやって、抱き締め合いながら二人でしばらく泣いた。

「ぐ……ぐぐぅ……ぐ…ぐぅ……」
「ぇ…ぇぇん……ぇぇ…ぇぇん…」

…そのうち彼が力なく崩れ落ちた。心因反応だった。極端にショックな出来事が原因で身体が動かなくなる反応だ。

私は泣きながらラブイズをソファまで引っ張り、そこに寝かせた。
そしてその上にぴったり張り付いて泣いた。彼の心臓の鼓動を聞きながら静かに泣き続けた。そしてそのうち寝てしまった…

夜中、気が付くとラブイズが私の頭を撫でてくれていた。

「…ラブイズ…」

「…目が覚めたかい…キキョウ…」

「うん…ラブイズ…ごめんなさい…」

「いいんだよキキョウ…私の方こそごめんよ…」

「私…嫌だったの…ラブイズに会えなくなることが…」

「キキョウ…私も気付いたんだ…君やアイハに会えなくなることがどんなに辛いことかって…」

「ぐず…ラブイズ…」
「キキョウ…」

彼の温かさと優しく頭を撫でられる安心感に包まれたような気がした。

「…ラブイズ…帰って来てね…」

「…わかったよ」

「…頭ゴワゴワ…」

「お風呂に入っておいで。」

「やだ…離れたくない…」

「じゃあ一緒に入ろうか。頭洗ってあげるよ」

「いいの?じゃあ入る」

「いいよ。それじゃ行こう」

そうやって彼と一緒にお風呂に入った。
ボーとしながら、彼にわしゃわしゃと頭を洗ってもらった。あー…気持ちいい…そしてのんびり二人でお湯に浸かる。

「ぁ゛〜…」

「本当にキキョウはお風呂に気持ち良く入るねぇ」

「え〜なんで〜」

「付き合いたての頃、気持ち良くお風呂に入る君を見て私もお風呂にハマッたんだ。」

「え〜そうだったの〜」

「お風呂は素晴らしい。副交感神経を優位にして気分をリラックスさせてくれる」

「まためんどくさい話」

「あ゛〜…」

「そして私の話聞いてない」

「…聞いているよ。たまに君は不思議なことを言うよね。アイハは間違いなく君の血をひいてると感じるよ」

「え〜何それ〜」

「ハハハ…さぁそろそろ上がろうか」

「むぅ…」

浴室から出て、短髪の彼は無造作に頭を拭くともうパジャマに着替えている。私は少しのぼせてバスローブのままソファでぼーとしていた。

「風邪を引くから早く着替えなさい。」の彼の言葉に気だるくドライヤーをかけに行く。

そして着替えて温かいうちにという彼の言葉に従い二人で床についた。

「…ねぇラブイズ…まだ起きてる?」

「…あぁ起きてるよ」

「そっちのベッドに行っていい?」

「…あぁいいよ。おいで」

「へへ…あーあったかい…」

「…ねぇラブイズ…」

「ん…?」

「…帰って来てね…」

「…うん…わかったよ…」

「…ちぅする…」

「ん?」

「ちゅぅするの」

「ん…」

彼はそっと頭にキスしてくれた。

「たくさん」

するとラブイズは小鳥がついばむようにたくさんのキスを頭にしてくれた。
私のその心地好さと、彼の体温と、彼の匂いに幸せを感じながら、まるで胎児のように丸まって彼に抱かれていた。

…そしてその夜、私達は久しぶりに結ばれた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

翌朝、久しぶりに彼のイビキを堪能した私はいつもより早くに目が覚めた。

外からの寒い空気が入らないように芋虫のように毛布にくるまり丸まって向こうをむいて眠る彼の姿が懐かしく感じた。
いつも私とは反対方向を向いて眠る彼に、朝までくっついて眠りたかった若い私は「なんでこっち向いて寝てくれないの」と聞いたことがあった。
彼は「お互いが顔を合わせて眠ると二酸化炭素濃度が上がる為に酸素の供給がうまくいかずに安眠を妨げる恐れがある」といつもの調子で、結局私の願いは叶えられなかった思い出がある。そんな彼の背中によくぴったりくっついて気を紛らわしたものだと苦笑した。
彼の為に美味しいコーヒーでも淹れてあげようと思い、キッチンに向かうと眩しいくらい明るい朝日が差し込んでいた。

思わず、ガウンを羽織り玄関の扉を開けた。
清廉とした空気が舞い込んでくる。
その空気を胸一杯吸い込んで外に出ると、朝日が私を煌々と照らし出した。

胸を透くような新鮮な空気と
エネルギーがチャージされるような朝日を浴びて、私の決心は固まった。

…彼を必ずこの世界に呼び覚ますことを
そして、この素晴らしい世界を彼と共に歩むことを。

「…ママ…おはよう…」

振り替えると頭から毛布にくるまりながら眠い目をこするアイハが玄関にいた。

「おはようアイハ。さぁ!パパの為に美味しい朝ごはんを作らなきゃ!アイハも一緒に作ろっか!」

「う〜ん…パパんとこいく…」

そう言うとアイハはトコトコ彼のところへ行ってしまった。

…ズルイ…
9歳児に嫉妬しながらも、そこが主婦の辛いところだと自分を戒め、彼の大好きなサンドイッチを作るべく再度キッチンへ赴いた。

…朝ごはんの準備は出来た…コーヒーも淹れたてが万全だ…
しかし…起きてこない…むむむむむむ…
…そっと寝室をのぞくと、毛布にくるまっている彼の後ろにぴったりとくっついて二人ですやすやと寝息を立てている…

…ズルイ。

しかし私は大人なので、そっとその扉を音を出さずに閉めてあげた。

アイハ…
アイハも彼の温もりが欲しいに違いない。

あんなに嬉しそうなアイハを見るのは久しぶりだった。昨日のことはまるで夢のようだった…

居間でのんびりコーヒーを飲んでいると何だか寝室の方から声が聞こえてきた。

キャッキャッ
ウフフフフフ…

…ズルイ…

バタン!と戸を開けて二人を見ると、飛行機ごっこに勤しむ彼とアイハと目が合った。

「ママもまざるー!」とベッドにダイブ。キャー!と矯声を上げるアイハ。
うおおっ!とびっくりして避ける彼。ドフッ!とベッドに倒れ込む私。

「なんで受け止めてくれないのッ!」

「いや…だってアイハ居たし…」

「キャハハハハハハ!」

「アイハだけズルい!アイハだけズルい!」

そうやって足をバタバタさせてみた。

「パパ!ママにもひこうきしてあげて!」

「う…うん…出来るかなぁ…」

「わーい」

「はい…よっと!」

「わー!パパすごーい!」

「むぅぅ…!」

顔を真っ赤にしながらぷるぷるさせて必死に私を支える彼を見て吹き出してしまった。途端、私を支える力が消え失せ、彼になだれ込む。

「キャーッ!キャキャキャキャキャッ!」
アイハが悲鳴にも似た笑い声をあげながら転がり回っている。

「お…重い…」

「失礼ねーきちんとダイエットしてますぅ」

「いや…そういう問題じゃなくて…」

「ぎゅうぅぅぅぅぅ!」
「あー!アイハもパパにぎゅうするー!」

「あ…トイレに行きたいんだけども…」

「ダメー」
「だめー」

「ぬあぁ…」

二人に押し潰される彼の姿を見てなんだか可笑しくてアイハと二人で笑い転げた。

「あはははは…あーあ、じゃあご飯食べよっか!」

「あ!アイハぎゅうにゅう飲むー!」
「顔洗ってからだよ〜」
「はーい」

「…もう…離してくれないか…」

「ぎゅうぅぅぅぅぅ!」

「ふぐっ!」

「はいおしまい!コーヒー出来てるよ!」

「ああ…有難う…」

朝からこっそりアイハと楽しんでいた彼のエネルギーをエンプティに近付けたことに満足し、彼を尻目に朝ごはんの用意に取り掛かる。

「ぎゅーにゅー♪ぎゅーにゅー♪ぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅーにゅーぅ♪」

ご機嫌なアイハは牛乳を歌いながらコクコク飲み干すと「あ〜ぁ…」と一つ溜め息をついた。

「どうしたのアイハ」

「だってパパもう帰っちゃうんでしょう?」

「しょうがないじゃない。パパもお仕事とか入院とか忙しいのよ」

「大人っていっつも忙しいっていう。先生も忙しい忙しいっていってアイハかまってくれないし!」

「何!先生が忙しいって言ってはいかんな!」

起きてきた彼がアイハの言葉に過剰に反応をする。

「まぁまぁ、大人が忙しいっていうのはしょうがないよ。アイハだってたまに言うじゃない」

「いうけどさぁ…」

「今度その先生をパパに会わせなさい」

「ちょっと、あなたもアイハの話を真に受けないの。ほらご飯食べよ〜」

「君はアイハの環境のことをきちんと考えているのか!?」

「あら〜あなたがそれを言うの〜?」

「む…むぅ…コーヒーを貰おうかな…」

「はいはい、ちょっと待っててね〜」

「ママ!“はい”は一回!」

「はいッ!ごめんなさい!」

「もぉ〜いっつもアイハママにいってるんだよ〜」

「ほほぅ…」

「ほほぅ…じゃない!ほら朝ご飯食べる!」

「はぁ〜い」

「学校の準備はしてあるの?」

「してなーい今日は休むの」

「だめー行きなさい」

「やー!だってたまのパパといっしょだよ?」

「パパもこれ食べたら帰るんだよ」

「えーそうなのー?じゃあいっしょに学校行こ?」

「じゃあ途中まで一緒に行こうか」

「ママも!ママもいっしょ!」

「えーお友達に笑われちゃうよ?」

「いいの。パパとママといっしょがいいの。」

「わかった。じゃあ一緒に行こうか!」

「うんー!」

「それじゃぁ早く食べて学校の準備しないとね。」

「はーい!」

「…散歩がてらには丁度いいかな。」

「やったぁ♪」

「あらもうこんな時間!じゃあ私も準備しなきゃ!」

「おいおいずいぶん慌ただしいな」

「何言ってるの、あなたも準備するのよ」

「私は着替えるだけでいいよ。」

「ごちそうさまっ!じゃあ用意してくるー」

「はい。落ち着いて忘れ物しないようにねー!あなたは寝癖」

「おお…あったか…」

「じゃあ私も準備するね。少しゆっくりしてて」

「あぁ…有難う」

急に慌ただしいいつもの朝に変わる。今日は有給を取ったからのんびり出来ると思ったのに。
だけどアイハの気持ちを思うと、やっぱり家族一緒がいいと思った。元気な彼と逢えるのは最後かも知れないから。

「じゃあみんなで行ってきまーす!」

「せーの!」

3人で玄関の扉を開け、3人で扉をくぐる。
朝日が燦々と降り注ぎ、私達の門出を光で照らしだしてくれているようだった。

「行こう!パパ!ママ!」

足早にアイハが階段を駆ける。その後に付いていく彼と私。アイハは私達の間に立ち、手を繋いできた。3人で歩く道。その道は真っ直ぐで、舗装された平坦な道だった。私は今日という日を歩む為に決して平坦ではない道程を歩んできた。
今日だけかも知れない幸せな道。またすぐ、山あり谷あり嵐が駆け巡る道程になるかも知れない。だけど、私はまたこの道を歩く為に前に進もう。
彼とアイハと一緒に。
もう私は迷わない。
心の迷子にならない。
この世界で彼とアイハと生きていこう。

アイハは私と彼の顔を交互に見ていて嬉しそうに行った。

「家族っていいな!」

――――――――――――――――――――――――――――――――――

学校からの帰り道、彼と二人で歩いた。
いつもと同じはずの景色は、その色と輪郭をはっきり縁取り、彩り豊かに感じた。

「…ねぇラブイズ」

「ん?なんだい?」

「私、あなたや博士がしようとしている実験は正直よくわからない。だけど、心は脳だけではなくて、全身で感じるものだと私思うんだ」

「ほぅ…それは面白い考察だね」

「考察とかじゃなくて…もう!ちゃかさないでよ」

「茶化してなんかいないよ。それで?」

「…うん…私はあなたといる時に身体全身であなたを感じるの。それは脳が考えてとかじゃなくて、例えば触って気持ちいいな〜とか、落ち着くな〜とか、いい匂いだな〜とか、なんか胸いっぱいになったりする」

「ほぅほぅそれで?」

「ん…と、だからなんか上手く言えないけど、私達のこと、忘れないでほしい」

「ん?うん、忘れないよ?どうしたんだい?一体」

「うん…あなたが機械に入るって聞いてから、ずっと考えていたんだ…私、心って脳で感じるものじゃないと思うの。素人の意見で申し訳ないけど、そういうものじゃないと思うんだ」

「いや…なかなか興味深い考えだね」

「だからそういうのじゃなくて!脳だけの治療じゃ心は難しいと思うの…だって気持ちってそういうものじゃないでしょう?心は考えるとかじゃなくて感じるものだと思うの。だから、だから私やアイハと一緒にいた時間や気持ちを忘れないでねって…」

「…あぁ…そうか…そうかも知れないな…」

彼は何だか神妙な面持ちになり、空を見上げ口をつぐんだ。それを見て私は何も言えなくなってしまった。
そうしている内に、段々と家に近付いてくる。

「キキョウ」

「なぁにラブイズ」

「色々…有難う」

うっすらと涙が浮かべながら真っ直ぐにこちらを向いて彼はそう言ってくれた。

「この二日間で私も沢山の事を学んだ。私も君やアイハと一緒に居たいと思った。いや、感じた。私の気持ちがそう感じたんだ。だから…だから待っていてくれるかい…?」

「ラブイズ…」

私は彼の頭をそっと抱いて胸に寄せた。

「ゥ…クッ…」
彼は苦しそうに我慢しながら泣いた。登校中の子供達や通勤途中の人達が私達を見て通り過ぎていく。彼は奥歯をギリギリと噛み締めながら必死に心の葛藤に耐えている。

彼の悲しみを二人では半分に分かち合いたいと思った時期が私にもあった。けれど、彼の悲しみや苦しみを代わることは出来ない。でも私はその両腕で彼を抱き締めることが出来る。今はそれでいいと思う。それがいいんだと思う。悲しみは分けることは出来ない。けれど包むことは出来る。身体で悲しみを包めば、心も包まれるんだと思う。それは母性にも近いのかも知れない。

子供が泣いた時に言い聞かせるよりも抱き締めてあげることがいいと思う感じに近いのかも知れない。そうしたらいつもアイハは泣き止んだから。子供が大人になったのが大人だと思う。だから、出来ないことがあったっていいと思う。

「…おうちに帰ろ?」

今にも崩れ落ちそうな、涙でボロボロになった彼を支えて家に入る。ソファに座らせてハンカチで顔を拭く。顔から滴り落ちるあらゆる液体を拭う気力を失った彼を何度見ただろうか。スイッチの切れたロボットのようにその姿勢のまま彼は何時間も動かなくなる。その後、彼は疲れてしまうのか横に倒れ眠ってしまう。私はじっと彼の横に居る。ただそばに居る。

最初は辛かった。何が何だかわからなかった。
今は何となくそばにいる。

動きたくなったら、ゆっくりとやんわりと行動し、なるべく大きな音を出さないようにして、ただ隣でくっついている。以前話し合った時に彼がそうして欲しいと言ったから。そうして何時間かしたら、彼はスイッチが入ったように目覚めるのだ。その時の彼はいつもひどく冷静になっており、いつも自分の感情や行動を分析している。

そんなことをぼんやり思い出していたら彼がドサッとソファの上で横に倒れた。私は寝室から薄手のタオルケットを持ってきて彼に掛ける。今日は休みを取ってある。というかだいたいこうなるので休まざるを得なくなる。

「10年か…」
彼の隣に座りながら、これまでの生活を振り返った。

たくさん辛いことがあった。
耐え切れないこともあった。
なんで私ばかりと泣き尽くした日々もあった。
生きる意味がわからなくもなった。
たくさんの辛いことがあった。

だけど、だからこそ、たくさんの幸せに気付くことが出来た。
ムリヤリに小さな幸せに気付く努力をしたわけじゃない。
そうじゃなくて、何も考えないで生きてきた私に、ラブイズやアイハはたくさんの色を与えてくれた。
悲しみの青は青だけじゃなくて、群青色や青紫や真っ黒に近い色なんかがあった。
喜びのピンクは薄ピンクだけじゃなくて、太陽のように輝いた色や真っ赤に燃えるように情熱的な色があった。
たくさんの、たくさんの色を私の人生に与えてくれた。
私も彼やアイハにどんな色を見せてあげられるだろうか。これからも家族でたくさんの色を紡いでいきたい…

喜びも悲しみも
憤りや憂いも
驚きや悩みも
恐怖すらも

すべて
すべて家族で感じたい。それはきっと私のわがままなんだと思う。この世界に生まれて、大好きな人達と人生を歩みたいんだ。たくさんの気持ちを抱えて、それでも輝いて生きていきたいんだ。

私はもう迷わない。
私の人生には彼が必要なんだ。
どれが正しい人生なんてわからない。わからないからこそ、信じた道を進みたい。

これまでの私は何の為に生きているのかがわからなかった。ただ逃げるように日本から飛び出してきた。留学の話があった時に、私はにのつべもなくその話を受けた。それは父との生活に限界を感じていたからだった。それとは別に、幼少期の心理状態には興味があったことももちろん留学の理由にあった。

子供が何を感じ、思い、考え、どう生きるのか?

彼と最初に会ったのは、彼が講師を務める児童心理学のセミナーで、私は生徒だった。講師と言っても簡単なセミナーだったのだけど、めちゃくちゃ堅物だと思った。

真面目で何でも理論的に考える彼は、正直感覚で生きている私には苦手な存在に思えた。
ここの国は子供にも自主性を重んじる。
それで興味があって来たのだけど、日本とは文化が違い過ぎて、私が思う子供の考え方とは距離があり過ぎた。

逆に彼は日本という国の文化や思想に非常に興味があったようで、クリスマスを祝い、正月には神社に行き、お盆にはお墓参りをするというごちゃ混ぜな宗教感が不思議でたまらない感じだった。

「君の国では宗教戦争は起こらない!素晴らしい思想だ!」と熱っぽく語る彼に最初は辟易していた。面倒臭いとすら感じていた。ただ、時折見せる彼の悲しい顔が印象的だった。

いく人かの友達は増えたけど、やっぱり外国の一人暮らしは淋しく、次第に日本が恋しくなった。そんな時に私の他愛のない日本の話を熱心に聞いてくれる彼は、私の癒しとなった。ただ、周りの人に付き合っているのかと言われた時は全力で否定した。彼は満更でもない顔をしていたけど…

そんな中で彼は益々悲しい顔をするようになった。訳を聞くと、「もうすぐ君は帰ってしまうんだろう?」と泣きそうになりながら言ってくるから、思わず笑ってしまったけれども、そんなに私と離れたくないかと、置いてけぼりの犬みたいな目で言われてしまって胸がキュンとしてしまった。

そのうち、研究の為にもずっとこっちに居てくれと何度も何度も言われて、それなら責任取ってくれたらいいよと冗談で伝えたら、真っ赤になって帰ったことがあった。遂に無理を言って怒らせたかと思っていたら、その数日後に両手で抱えきれない程の桔梗の花束と、指輪を持って彼が現れた。

ただただびっくりしたのと、彼から「結婚して欲しい」と告げられた時にようやく彼の不器用な愛情に気が付いた。

私が一人でいないように、私が淋しい思いをしないように、彼はいつもそばに居てくれた。

こんな私の為に、たくさんの愛を与えてくれたと感じた私はコロッと彼に参ってしまった。そして別に何となくここで暮らすのも悪くないかなと思った。

最初は私の国に興味があったみたいだけど、次第に私の話ばかりになっていく彼の姿を見て、博士が「ひょっとしたら君はキキョウのことが好きなんじゃないか?」と言ってくれたらしい。その時の彼はびっくりして、そういえばいつも私のことを考えているということに気付いたみたい。博士は「それが恋だ」と教えてくれたとのこと。なんと初恋らしい。付き合いはじめてそれを聞いた時に足をバタバタさせてしまった。

付き合うにつれて彼は私を宝物のように扱った。真綿でくるむように優しく優しく扱ってくれた。

実は私も初めての彼氏だった。だからすごく嬉しかった。彼はいつも難しい事を考えていたけれども、そんな真面目なところも好きだった。

真面目で
堅物で
融通が効かない彼は、
そうあらねばならぬという信念を感じさせた。

彼が初めて私に弱味を見せたのは、付き合ってから3ヶ月が経った時だった。私が他の男性と話してたことに激情した彼が、唐突に私に怒鳴り声を挙げた。彼がすごく大きな声を出したことにびっくりして、その時私は泣き出してしまった。一緒に話していた男の人は、ただのクラスメートで、彼のセミナーにも参加していたいわゆる“見知った人”だった。その人は彼にびっくりして謝罪をし、そそくさと居なくなった。その後で彼は泣いている私に何度も何度も謝罪して、女性を好きになったのが初めてで、自分の感情が抑えきれ無かったと話してくれた。私はただびっくりしただけですぐに泣き止んだので、その時はそんなこともあるのかも知れないなぁ位にしか考えなかった。後から思えばあれは『見捨てられ不安』からくるものだったと思う。

それを期に彼の束縛はひどくなっていったのだけど、若い私はそれも彼の愛だと何となく受け入れていた。

彼は家族が欲しいと言った。私との目に見える絆が欲しいと言った。プロポーズも受け、結婚を前提にお付き合いもしていたし、私は何となく彼のアパートで一緒に暮らし出した。

一緒に暮らすようになってすぐに、彼は私を彼の母親に会わせてくれると言った。大学の施設に住んでいると言う。

今までそんなに近くにいたのに何で会わせてくれなかったのかと聞くと、病気だからと言われた。
何か、難しい顔をして彼は言った。母親は精神病だということを。自分は母親が許せなかったということを。そして今は自我が崩壊してしまっていることを。

彼は苦しんでいる様子だった。私は彼に「一緒に面倒を見ていこう」と声をかけた。

彼の母に会う前にサイトウ博士を紹介された。博士は有名人だったから私は知っていたけれども、研究者というのはどこか偏屈な人が多いと偏見を持っていた私はとても緊張した。

初めて会った博士は大きな声で笑いながら私達を祝福してくれた。私の心配は杞憂に終わった。そして博士は彼の母の話をしてくれた。

彼の母は昔から精神が不安定だったこと。
彼の父親は誰かわからないこと。
彼が大学に来てから研究対象という名目で施設で過ごしていること。

それだけ言うと博士は「じゃあ会いに行こうか」と私達を連れて施設に赴いた。

初めて会った彼の母親はまるで認知症の老婆のようだった。齢50位だというのに顔には深い皺が刻み込まれ、目は虚ろで生気を失っていた。博士に車椅子で引かれていた彼の母親はおおよそ「生きている」には程遠く、「生かされている」に過ぎないと感じた。

彼は複雑な顔をしながら母親に私を紹介した。私は一礼をして挨拶をしたけど、彼の母親は何も見えていない様子だった。彼は悲しそうな、困ったような、泣きそうな顔をしながら「これが私の母だよ」と言った。私は何も答えられなかった。

博士は「今日のマリーはとても嬉しそうだ」と言った。けれども私にはわからなかった。それよりも彼が心配だった。きっと私に母親を会わせることをすごく悩んだに違いない。

二人のアパートに帰ってから、どこかしら彼はよそよそしく感じた。そして「こんな母親でごめん」と一言呟いた。私はなんと言っていいのかわからなくなって、その場で黙ってしまった。

今ならわかる。彼を抱き締めて「大丈夫だよ」と言ってあげれば良かった。だけど、当時の私にはそれが出来なかった。何をどうすればいいのかわからなかった。

ただ呆然としていた私のそばで、彼は急に叫びだした。

「やっぱりそうだッ!!」

びっくりして彼を見ると怒りに満ちた目で真っ直ぐだけを見ていた。

「あの女が私の人生を狂わせる!あの女が私から全てを取り上げる!あの女がいるからッ!あの女がいるからッ!」

手当たり次第物にあたり出す彼の姿を目の当たりにして、私の身体は硬直してしまった。私は彼に恐怖を感じた。

「もう止めてーッ!!」

悲鳴にも似た声をあげると彼は肩で息をしながら、私の方へ振り返った。

「ひィッ!」
私は思わずその時声をあげてしまった。彼の顔が怒りを通り越して無表情になっていたからだ。その瞬間、バタンと彼は意識を失って倒れてしまった。私は彼に駆け寄って、彼の名前を呼んだ。彼はビクンビクンと痙攣していた。私は救急車を呼ぼうと思った瞬間、博士の顔を思い出した。そして彼の携帯電話から博士の番号を見付けて電話をした。ワンコールを待たずに博士は出た。

「サイトウ博士ですか!?キキョウです!彼が!彼が…!」

「キキョウ…?キキョウかい?ラブイズに何かあったのか?」

「彼が!彼が急に…!」
「OKわかったよキキョウ。まずは君が落ち着こう。ゆっくり深呼吸をして…そう、もう大丈夫だ。さて冷静に説明してくれるかい?」

優しく言葉を受け止めてくれた博士に私は幾分か冷静になりながら、帰って来てから今までのことを口早に説明した。

「そうか。わかったよキキョウ。大変だったね。ではまず、こちらから救急車を静かに出動させるから、君はラブイズのそばにいてやってくれないか?
後はラブイズについて一緒にこちらに向かってくれ。出来るかな?」

「私は…私は何をすればいいの!?人工呼吸とかしなくていいの!?」

「大丈夫。ただそばに居てくれたらそれで大丈夫だよ。キキョウ。とにかくそばにいるだけ、それでいい。後はここで話そう。いいね。一旦電話を切るよ」

そう言うとゆっくり博士は電話を切った。彼はその間、涙を流し続けていた。

「あ…!く…!」
と時折苦しい声をあげて何かに耐えていた。今なら、彼の心のキャパシティがオーバーしたことによる心因反応だということがわかる。ただその時は、彼が死んでしまうのではないかと思って。彼がいなくなってしまうんじゃないかと思って。彼の苦しさがわからない自分にもどかしさにも似た焦燥感を感じながら、早く救急車が来るのを彼のそばで祈り続けた。

博士の元へ辿り着くと、博士は彼を診察して点滴を施した。彼が点滴を受けている間、私は博士の研究室へ初めて呼ばれた。研究室の博士の机には彼と博士が肩を組んで笑っている写真があった。そこで私は博士から彼の生い立ちを聞いた。

彼の父親はいないこと。
母親から虐待を受けていたこと。
彼が一人で生きてきたこと。
私が初恋だということ。
彼が母親のことで悩んでいたこと。
母親のことと私のことで悩んでいたこと。

博士は一通り話終わると確かめるように私に言った。

「それでも彼と一緒に居ることが出来るかい?」

私は「出来る」と答えた。私も父子家庭だった。不器用な父親と二人きりで暮らしてきた。彼の気持ちも少しはわかった。私は父が嫌いだった。

不器用で
寡黙で
私のことなんか何もわかってくれない父が嫌いだった。

今は…今では少し父の気持ちも分かるような気がする。
子供を育てるということ。

寡黙で不器用だった父。
料理なんてほとんどしなかった父。
会話らしい会話はほとんど無かった父。

その時の私は彼が全てになっていた。そして、私が彼の本当の家族になろうと心から誓った。

その時、ガチャリと戸が開く音がして、彼が博士の部屋へ入ってきた。

フラフラと身体を揺らしながら、どっかりとソファに身体を落とし、それからしばらく頭を抱え、ゆっくりと私の方を向いた。そして「すまない」と一言彼はそう言った。その目には涙が溢れていた。

私は彼の隣に座り直すと、彼に「一緒にいよう」と言った。彼はまたしゃくり上げながら泣いた。博士はずっと彼と私を見つめていた。

それからしばらく彼は普通だったように思える。ただ、異常なまでに私に甘えるようになった。二人で居る時に彼は離れることがなかった。私もそれで良かった。彼の心の傷を癒している実感に幸せを感じていた。

その内お腹にアイハが宿った。彼は「君の父親に会いに行こう」と言ってくれた。二人とも、まだ学生ではあったけれども産んで育てること以外に考えは無かった。これでやっと本当の家族になれると思った。そして彼と私の父親に会いに行った。

電話で会いに行くことを伝えた時に、父は一言「わかった」と言ってくれた。二人で父に会いに行くことを決めてから、ずっと彼は緊張をしていた。お土産は二人で選んだブランデーにした。そして彼は一生懸命日本語を覚えていた。

そしてその日が来た。
彼はかっちりとスーツを着込み、私が父が住んでいたアパートの前でカチンコチンになっていた。
ピンポン
とチャイムを鳴らすと奥からドシン、ドシンと足音が聞こえた。彼はいよいよ真っ青になりながら、持ち手がしわしわになったブランデーの袋を固く握り締めていた。

ガチャリ…

ドアが開くといつもの父親がそこにいた。

無愛想で
大柄で
大工で鍛えたがっちりした太い腕が、ドアノブを握って私と彼をゆっくりと交互に見据えていた。

彼が今度は顔を真っ赤にしながら何かを言おうとした途端、バゴン!とすごい音がして、目の前から彼が居なくなった。父は彼を殴り飛ばしていた。顔はいつもの仏頂面だった。

「なんてことするのッ!」
私は叫びながら彼に駆け寄ると、彼は鼻血と涙ををダラダラ流しながら、ふらふらと父に近付き、深々と頭を下げて片言の日本語で言った。

「ムスメサンヲクダサイ」

しばらく父と彼は黙っていたけど、私は彼のケガが気になってハンカチで彼の鼻をずっと押さえていた。

「ムスメサンヲクダサイ!」
「ムスメサンヲクダサイ!」
「ムスメサンヲクダサイ!」

ずっと頭を下げたまま、彼は震えながら言い続けた。その内、父が「上がれ」と言って家に上がった。鼻と口の血が止まらないのを心配して、私はティッシュを彼に預けて家の中でタオルを探しに行った。昔から喧嘩早かった父に心から憎しみが湧いた。すぐにでも彼と帰ろう!そう思っていると、
「ア―――ゥチッ!」
と声が響いた。彼と父のいる部屋からだ。彼にまた何かあったのかと思い、急いで部屋に入ると何だか彼は苦笑いを浮かべていた。

父が酒を注いだらしい。そして彼はそれを飲んだようだ。傷痕にお酒が染みるのは当然だと思った。

そして、なんだか不思議と照れている彼と、いつもと変わらない父親が寡黙にお酒を彼に注いでいた。彼はそれをニヤニヤしながら黙って飲んで、染みて痛がっている。彼をじっと見つめる父が、なんだかいつもと違う父親のような気がして、私も力が抜けてしまった。

「何をやっているの…もう…」
と私が言うと、父は静かに重い声で「座れ」と言った。私がふてくされながら彼の隣に座ると、父は私にも日本酒を注いだ。

「妊婦だから飲めない」というと、父は黙って自分のコップに酒を注ぎ、飲み干した。

「なんで彼に暴力振るったの!」そう聞くと父は一言「順番が違う」と言った。いつもそうだった。私のことで何かある度に父は周りの人に暴力を振るった。確かに順番は違ったけれども私ももう大人だ。父が彼を殴り飛ばすのはやりすぎだと思う。そう伝えると父は「母さんに申し訳が立たん」と言った。

私の母は私が生まれてすぐに亡くなった。元々身体が弱かったようだけど、父はあまり話してくれなかった。私が留学する時に、父は一枚の手紙をくれた。生まれたばかりの私に宛てた母からの手紙だった。そこには、身体が弱かった母から、強く、優しく育つようにと願いが込められていた。ろくな親戚付き合いも無く、一人で私を育ててくれた父は、私が何か悪さをしても黙って何も言わない人だった。父は不器用な人間だった。お酒を彼に注ぎ、自分に注ぎ、黙って飲むその目には涙が滲んでいた。父は父なりに私を愛していてくれていたのかも知れない。そう思った。

その日はそのまま一晩泊まった。

次の日帰る時に、父はほこりのかぶっていた写真立てを綺麗に拭いてから私にくれた。生まれたての私を抱く母の写真だった。「持ってけ」と無造作に渡された木の写真立てには、たくさんの手垢で黒くなった後があった。ふとした度に、この写真を見つめていた父の姿を思い出した。

「達者でな」
「お父さんもね」

「アリガトウゴザイマシタ」とお辞儀をする彼に父は「おう」と彼の肩をがっしり掴んでいた。彼はなんだか嬉しそうだった。帰りに話を聞くと、どうやら日本では父親に殴られてから娘をもらうという文化があるという間違った認識が彼にはあったようだった。一連の儀式を終えた彼は満足気な表情をしていたので、私は黙っておくことにした。

帰ってから、すぐに結婚式を挙げることになった。私も彼も特に考えていなかったのだけど、博士がどうしても挙げろと聞かないんだと彼が言った。父に連絡をしてみたけど「行かん」の一点張りだった。仕事第一の頑固親父なのでなんとなくは想像していた。

彼も私も特別親しい友人が多い訳でもなかったのと、派手好きでもなく、妊娠中ということもあり、近くの教会で静かに挙げることにした。

博士から何度も電話がきて、どうしてもドレスを買わせてくれと懇願されたが、丁重にお断りをした。こっちでは親しい友人がドレスまで買ってくれるものなのだろうか?ウェディングドレスは貸し衣装で選んだ。妊婦でも着られるものがあって良かった。なんだか本当に結婚するんだなぁと実感した。

結婚式の日は良く晴れていた。二人で普通に朝御飯を食べて、貸衣装屋さんへ車で行った。ウェディングドレスを身に纏う。彼はタキシードを着こなす。タキシード姿の彼はかっこ良かった。やっぱり日本人とは違う。似合いすぎる。彼は私を見るなり「今日という日を神に感謝しよう。君は誰よりも美しい」と真面目な顔で言って、あの日告白してくれた時のように桔梗のブーケを私に渡してくれた。

映画みたい。
やっぱり日本人とは違う。

外に出ると大きなリムジンが待ち構えていた。「これは博士からのプレゼントなんだ」と彼は言った。いらない。家に置けない。と真顔で言ったら、彼は笑って「レンタルだよ」と教えてくれた。

教会へ着くと、博士と彼のお母さんがいた。博士が車椅子で彼のお母さんを連れてきてくれていた。二人とも素敵なドレスとタキシード姿だった。
お義母さんは虚ろな目線は変わらなかったけれども、お化粧のせいか前よりも輝いて見えた。
博士はとびきりの笑顔で、私と彼を教会に招き入れた。

4人で教会に入ると、そこは厳かで、凛とした空気が満ち溢れていた。ステンドグラスからは木漏れ日が煌めいて、天使たちも祝福してくれているように見えた。先に博士とお義母さんが席につく。そして音楽が鳴り始めた。

私達はゆっくりと神父の元へ向かった。

一歩一歩。

彼との人生の最初の歩みを噛み締めるように。

あぁお父さんにも見てもらいたかったなぁ。

そう思った。

神父の前にゆっくりと赴いた後、音楽が鳴りを潜め、そして厳粛な空気が周りを包み込んだ。

有難いお話が綴られる中、今までの人生が連々と頭に浮かんでは消えていった。

「キキョウ・ハナイ
貴女はキキョウ・ハルトスとなり、ラブイズ・ハルトスと共に
病める時も、健やかなる時も
貧しい時も、富める時も
汝これを
守り
慈しみ
愛し続ける事を誓いますか?」

「はい誓います」

…彼と一緒に、彼と共に、これからの人生を歩んでいこう。
そう、心に誓った。

結婚式の後、父に手紙を書いた。結婚式の写真と一緒に入れて送った。父からの返信はなかったけど待っている訳でもなかった。ただ、私が思う、ありったけの親への愛情というものをを言葉にして綴ってみた。父はなんて思っただろうか。

それからは日々大きくなるお腹を大切にしながら忙しく過ごした。
異国の地で様々な手続きに追われる中での妊娠生活は慌ただしく過ぎ去っていった。彼は日々大きくなっていく私のお腹を毎日毎日愛しそうに撫でてくれた。彼も一層仕事に精を出して頑張っていた。

朝早く出掛け、夜中に帰宅してくる彼は頼もしくもあったが寂しさもあった。つわりが酷くなった時期もあって、彼はなかなか外に出させてくれなかった。それでも日中時間がある時は大学へ行き、なんとか保育士の資格を手に入れた。

そしてその年の12月12日、陣痛が始まった。
夜7時頃だろうか、なんだか少しずつお腹が痛くなり、これは来たかな?と思った。夜中に帰宅して来た彼は私より慌て出してなんだかとても可笑しかった。時折波のように表れる陣痛に脂汗が滲んだ。もういよいよダメだと思って、夜中に彼を起こして病院へ連れて行ってもらった。それからはなんだか良く覚えていないけど、たくさん彼が身体をさすってくれたと思う。とにかく痛かった。早く産みたくても助産師さんに「ストップ!ストップ!」と言われ続けて何で!何で!何で!何で!とずっと怒っていた。そして朝方にようやく「ゴー!」サインが出たと同時にアイハが産まれた。

生まれたてのアイハは“赤ちゃん”の代表のような赤ちゃんだったと思った。真っ赤に泣き上げるアイハをおぼつかない手付きで抱いている彼が号泣していたのを覚えている。それから私は寝てしまい、昼過ぎに起きた。

痛む身体を引きずりながらアイハを見に行くと、小さな小さなアイハがそこにいた。

笑いながら、泣いた。

彼との家族が出来た。魂の繋がりが出来た。そしてそのアイハが愛しくて愛しくて堪らなかった。後ろから彼が私を見付けてそっと私の身体を支えてくれた。そして私に「ありがとう」と言ってくれた。

私達に家族が出来た。
そして彼とアイハと3人での生活が始まった。相変わらず彼は朝から晩まで一生懸命に働いていた。私は毎日アイハの育児に奮闘していた。大学では小児心理学を専攻していたし、保育士の資格も取った私に彼も安心して育児を任せてくれていた。

甘かった。

慣れない育児に加えて異国の地での子育ては、頭では理解しているつもりだった私にとって、想像を超えたストレスがのし掛かってきた。そのうち、彼の頑張りに嫌気がさすようになり、ベタベタくっついてくるのが煩わしく思うようになった。

平日は育児に参加してくれない彼に不満を持った。毎日荒れていく肌や髪がふと買い物途中で見る同じ世代の子達と比べると恥ずかしくなった。何で私ばかり苦労をするんだ!と、幸せなはずの結婚生活が毎日に追われ、ボロボロになっていくような気がした。

私は幼かった。毎日の生活に一杯一杯だった。

そんなある日、インターネットで外国人の子育て支援サイトを見付けた。同じように悩む人達が大勢いて、一人じゃないと感じるようになり、私は暇さえあればそこにのめり込むようになった。そしてそこで自分の不満を撒き散らした。

そこで得たアドバイスを鵜呑みにして、彼との喧嘩も次第に増えていった。
仕事に行かないでもっとアイハの面倒を見てよ!だとか私だって疲れているんだから自分でご飯くらい用意して!だとか、段々彼にも不満を撒き散らすようになった。

彼は寂しかったんだと思う。

欲しかった家族が、理想の生活が、音を立てて崩れていく。そんな気がした。

私はわがままだった。自分のことで手一杯になった。

それでも何とか踏ん張ってやってきたけれども、遂にアイハが3才を迎えようやく手が掛からなくなった途端、まるでぷっつりと糸が切れたように身体が動かなくなってしまった。

いわゆる育児ノイローゼになった。それから彼は私を支援していた外国人女性保護団体に糾弾されていった。

真面目な彼の精神はそこで崩壊された。

そして彼は世界を憎み続け、私はそこで目が覚めた。幸せも不幸せも自分の心が創ることに。

彼も葛藤している。あの頃の私のように。
彼は傷付いている。あの頃の私のように。

あれから私は自分を責め続けて生きてきた。

彼を追い込んでしまったのは自分だと、彼からの理不尽とも思える要求を出来る限り尽くしてきた。だけどこれからはもっと皆と幸せに生きることを大切にしていきたい。

心が強いとか弱いとかじゃなくて、人間自体が一人では生きていけないのだと思う。

世の中と同じように支え合って生きていくんだ。

彼と…彼とアイハと一緒に。

隣で眠る彼を見つめながらそう思った。

「ん…」

彼が目を覚ますともう12時近くなっていた。

「…ごめんよキキョウ…」

「いいのよ。もうお昼だけど何か食べる?」

「いや…帰るよ…」

「そう…わかった。じゃあおにぎり握ってあげる。持って帰ってちょうだい!」

「あぁ…米はGI値が低いから丁度いいな…これからトレーニングなんだ…」

「よし待ってて!」

冷凍ごはんで申し訳ないけどレンジでチンして大きなおにぎりを一つ。中身はおかか。おにぎりは彼のお気に入りの一つだ。

なんでもエネルギー効率がいいらしい。私には腹持ちがいいことしかわからない。

「はいどうぞ!」
「ありがとうキキョウ」

「時計のこと、忘れないでね」

「あぁ…わかったよ…」

「いつ機械に入るの?」

「検査の結果次第では来週にでも入るよ。決まったら連絡する」

「ん…わかった」

「じゃあ…行くよ」

「うん……ラブイズあのね…」

「ん…なんだい?」

「待ってるから」

「うん」

「帰って…来てね」

「うん、わかったよ」

「約束だよ…」

「…わかったよ」

そう言って彼は玄関の扉を開いた。

本当は…昨日今日みたいな毎日でも私は良かった。彼が不安定になったってそれなりにやっていけると思える。だけど…自殺だけは止められない。それだけは彼自身が乗り越えなくてはならない。波はあると思う。例え機械から生還したとしても自傷行為は変わらないかも知れない。というか変わらないと私は思う。だけど彼が自分で決めた道を進むことに意味があるんだと思う。どんな結果であれ、彼の人生の尊重をしていこう。それが前向きな方向ならば。

見送る彼の後ろ姿を何度も抱き締めたい衝動にかられた。例えば私がわがままを言って彼を引き止めてもいいかも知れない。彼も考え直してくれるかも知れない。

だけど、しない。しないんだ。私はそう決めたから。

何が正しいかなんてわからないけれども、自分で決めた人生を悔いなく生きよう。私がそう決めたから。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク