第五章  《キキョウ(36)》 -不安-

AM7:30
ブゥンブゥン
携帯電話のバイブレータがベッドの脇で振動を鳴らし続ける。
博士は眠い目をこすり、眼鏡を掛けて画面に目をやると病院からだった。

「はいサイトウだが」
「あ!博士!朝から申し訳ありません!主任の姿がありません!」

「何!?ラブイズが!?トイレじゃないのか?」

「はい!6:30の巡回で姿が見えなかったので7:00にまた見に行っても居なかったので、とりあえず周りを探しましたが見当たらなくて…昨日の0:00に確認した時はベッドで寝ていたのですが…」

「監視カメラや心電図などは確認したのか?」

「はい、点滴や心電図等は外されており、監視カメラでは0:30過ぎにここを出たことが確認されています…」

「まだ体力は完全に回復していないはずだ!どこに行ったんだラブイズ!とりあえず私は家族に連絡を取る!君達は辺りを探してくれ!」

「分かりました」

「宜しく頼む」

プツン―

プルルルルルルル…
「はい博士、おはようございます」

「キキョウ、ラブイズは来ていないか?」

「ラブイズ?来ていないですよ!?彼、いないんですか!?」

「あぁ、朝からすまない。今連絡が来て、昨日の夜中からいないらしい。君達のところへ来ていないとなると…キキョウ。ラブイズのアパートへ行ってくれるかい?」

「わかりました!また連絡します!」

「すまないキキョウ。頼む」
プツン―
「ラブイズ…どこへ行った…まだ意識も混濁しているかも知れないというのに…」

そう言いながら博士は手近なコートを羽織り、足早に大学へ向かった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

「アイハー!ママちょっと博士から電話来たからパパのアパート行ってくるから―!」

「え―!なに―!?パパどうかしたのー!?」

「いなくなったらしいの!」

「え!?パパが!?」

「そう!」私が車のキーを手に取り玄関へ向かおうとすると「私も行く!」とアイハが立ち上がった。

「あなたは学校に行きなさい!」

「イヤ!私もパパが心配だもん!」

「…わかった。早く用意しなさい!」

「はい!」
食べ掛けのトーストを口一杯に頬張り、一気に牛乳で流し込むとアイハは自分の部屋に駆け込んですぐにジャージに着替えて出てきた。

「準備OKよママ!」

「よし!」

二人で車に乗り込んで彼のアパートへ向かう。

彼が目覚めてから混乱を避けるという理由で面会出来なくなって一週間。彼に何が起きたんだろうか…不安が胸の奥から突き上げてくる…
久しく感じなかった焦燥感。彼に対する得たいの知れない恐怖を感じながらハンドルを握っていた。

「パパも大概ムダにアクティブよね」

隣でアイハが軽口を叩く。

「大丈夫よママ!パパは帰って来たんだから!」

彼女はいつも楽観的だ。一体誰に似たんだろうか…

彼のアパートに着くとまずアイハが鍵を片手に掛けていった。
その間に私は車を駐車場に止める。

「ママー!」

アイハが呼んだ。急いで駆け付けると入り口の隣にあるトイレの窓ガラスが割れていた。

「…やっぱり…」
「入ろママ!」

鍵は開いていた。カチャリ…
「パパー?いるー?」

…返事は無い。恐る恐る中に入ると埃っぽい部屋の中にうっすらと彼のものと思われる足跡があった。

アイハは「パパ―どこ―?」とずんずん奥に入っていく。

「いないわ」

一言アイハが呟いた。私は動悸が激しくなり、その場でへたり込んでしまった。

「ちょっと大丈夫?ママ!しっかりして!」

アイハが駆け付けて私を背中から支えてくれる。

「…大丈夫…大丈夫よママ…」

ゆっくりと背中を撫でてくれる彼女を感じながら、私は恐怖を感じている自分に気が付いた。

彼が帰って来た。
彼の常識外の行動、割れたガラス、残された足跡…それまでの安堵感はどこへ行ったのか、不安と焦燥感だけが胸を突き上げる。

「うッ!」

さすられる背中に吐き気を催して、その場へ朝御飯を吐き戻した。

「ゲェ―…」
「ちょっとママ!大丈夫!?」

アイハの声がなんとか気力を奮い起たす。

「ハァ…ハァ…大丈夫…ごめんね、こんなんなって…」

「いいのよ。も―パパめ―!ママにこんなに心配させて―!」

アイハが立ち上がるとふっと背中が軽くなり、顔が上に上がる。ふと気付くと、戸棚に違和感を覚えてよろめきながらそこへ向かった。

「ママ…?」

…無い。彼の財布が無くなっている。

「…財布が無い…」

「コンビニに行ったんじゃない?」

「いや…」
奥の部屋を見ると無造作に投げられた病院の入院服が目に入った。

近付いてみるとタンスから衣服を着替えた形跡があった。

「着替えてる…?」

「どこに行ったのかなぁパパ―」

そうだ。どこに行ったんだろう…?ひょっとして、機械に入る前の彼と変わらなかったら…
「いやあぁぁぁぁぁッ!」

「ママ!大丈夫!?ママ!」

またあの日々が来る、またあの日々がやって来る。覚悟したあの日々がまたやって来る。

ドン!ドン!と音を立てて心臓の音が高く早くなるにつれて胸がどうしようもなく苦しくなっていく。

「アイ…ハ…」

ピロロロロロッ!その時私のポケットから携帯電話が鳴り響いた。アイハが私の服からもどかしく携帯電話を取り出すと電話に出た。

「…はい…はい…おじいちゃん?アイハです…はい…えぇー!はいはい!わかりました!ママに変わります!ママー!おじいちゃん!パパ日本だってー!」

日本…!?
急いで携帯電話をアイハから渡された。

「はい…」

「あぁキキョウ?大丈夫かい?朝から騒がしてすまない。ラブイズなんだが日本に行ったようだ。理由はわからないが警察に協力してもらい監視カメラから足取りを追ったんだ。とりあえず話し合おう。今から来れるかな?」

「はい…」

「気を付けて来るんだよ。じゃあ一旦切るからね」

…日本。日本に何があるというんだろう…

「日本!パパ出掛け過ぎ!!」

そしてアイハとその足で博士の研究室へ向かった。

「いやーそれにしても日本かー。私そういえば一回も行ったことないなー」

アイハが車の中で呟いた。

出産したら帰ろう、アイハがもう少し大きくなったら帰ろう、彼が落ち着いたら帰ろう、彼が戻って来たら帰ろう、と伸ばし伸ばしになっていた。

あれから18年になる…父は元気だろうか…

最初のうちは電話をしていたけど「ああ」とか「おお」としか言わない父に段々話すことが無くなってその内、手紙を書くようになった。その手紙も段々頻度は減って今ではアイハの誕生日の後、年に一回送るだけになった。年に一回、父はアイハの誕生日にお金を振り込んでくれた。そして近況を綴った手紙を年に一回送る。それだけになった。

…それより彼はなんで日本になんて行ったのだろう…彼が病気になってからエキセントリックな行動はし続けたけれども、急に遠くに居なくなることなんてなかった…博士は何か知っているのだろうか…そう考えながら博士のところに到着した。

博士の研究室に着くといつものコーヒーが用意されていた。その香りに少し落ち着き、いつもの気持ちに戻ってきた。

「窓から私達が来るのが見えたから用意しておいたんだよ」と博士は言った。
博士なりの気遣いが感じられると共に、言い訳じみた言葉が相まって、申し訳なさそうに恐縮する姿が博士をさらに小さく感じさせた。

「…この度は…すまなかった…私が付いていながら…」

「いいえ、博士は良く彼を良く見てくれています。逆に彼がご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

「そうよ!いつもお騒がせなのはパパなんだから!おじいちゃんは悪くないよ」

「…すまないなぁアイハ、キキョウ。そう言ってくれると少し心が休まるよ…」

「それはそうとなんで彼は日本なんて…?」

「うん…そこなんだが…理由はわからないんだ…置き手紙も無し、言葉も無し…
ただ、考えられることはキキョウ、君の記憶と関係があるのかも知れない」

「私の記憶…?」

「イエス。彼がマシンに入る前に、君の日記と君の記憶について綿密にミーティングを重ねてマシンにインプットをしたのを覚えているかい?」

「ああ、私の記憶を彼が体験する為の…」

「そう、
そして彼がマシンに入る前に突然言い出したことが気になってね」

「彼が言い出したこと…?」

「そう…手術前、最後に言い残すことはないかと聞いたら、『心は脳だけで感じるものではない』と言い出したんだ。私はそれが妙に気になってね。東洋思想でそのような考えがあるのは知っていた。だから、彼がマシンに馴染む4ヶ月の間に少し使用を変えたんだ。
それでナノマシン『ブレーン』を脳だけでなく五臓と五感に配置した。
心臓、肝臓、肺臓、腎臓、脾臓、そして触覚、視覚、嗅覚、聴覚、味覚にね。分かりやすく言うと、例えば心臓移植をした人が、なぜかドナーの記憶を持ってしまうことが世の中にはあるだろう?未だ科学では解明されていないが、私は出来る手は全て打ちたかったんだ」

「おじいちゃん、それがなんでパパが日本に行く理由になるの?」

「うん、これは予想なんだが、ラブイズは記憶の混同著しい状態であったと推測出来る。居なくなった家族が現れた安堵感の次に来るのはまた居なくなる恐怖、もしくはなぜ?どうなったか?という不安の増強、そして非日常が日常と裏表であった不信感だ。それらを統合すると、マズローの言うところの『安心の欲求』『所属の欲求』の欠落からの衝動によるものだと推測出来る。つまり故郷が恋しくなったんだよ。望郷の念に駆られる。そう考えれば今回の件にはとりあえず辻褄が合う」

「つまり、私の記憶がそうさせた…?」

「かも知れないという話だ。どちらにしてもラブイズを保護して事情を聞く必要がある。そこでアイハ…ラブイズを迎えに行ってくれるかい?」

「えっ私!?行く行く!」

「いや、あなたは学校があるじゃない。博士もむちゃ言わないで」

「休む!」

「“休む!”じゃない」

「キキョウ。一応考えを聞いてくれるかな…?
ひょっとしたらラブイズはすぐに帰ってくるかも知れない可能性も高い。そうした時にキキョウが居ないとまた彼はパニックに陥る可能性がある。アイハはすでに高校生だ。ラブイズの記憶に大きいアイハの記憶は薄い。ラブイズのアパートや所持品をそのままにしておいたのは、彼がスムーズに今の生活に馴染んでいく為に必要だから残しておいたものだというのは前に話をしたね。
キキョウ、君が居ないとラブイズは何も始まらないんだ。そう考えれば今回、アイハが彼を迎えに行くことはラブイズにとって最良の策と言える」

「だよね!」

「だから“だよね!”じゃないって!彼にとっては良いかも知れないけど、あなたにとって良いとはママは思わないよ」

「なんで!?」

「あなたは学生だし、なるべくママは普通の生活をしてもらいたいのよ…パパに振り回されるのはママだけで充分だから…だから…パパのことはママに任せて…」
「いーやッ!」

「言うこと聞きなさい」
「聞かない!」

「キキョウ…」
「博士は黙っていて!」
「あ…はい…」

「ママ…ママの気持ち…私もわかるよ。だけど私の話も聞いて。
ママもおじいちゃんもパパも、メンドくさいんだよ。考え過ぎてメンドくさい。そうじゃなくて、パパが行きたかったんならいいじゃない。
けど今の状態は心配だから誰か迎えに行かなくちゃいけないんでしょう?なら私が行く。私だってパパが心配なんだもん。それじゃダメなの?」

「…日本のおじいちゃんに頼みます」

「日本のおじいちゃんしてくれそうに無いと私思うよ」

「…」

「キキョウ…」

「…博士は黙ってて…」

「むぅ…」

「…なにさ…なにさ……いっつも…

いっつも彼ばっかり優先してッ!!
たまには私の言うことも聞いてくれていいじゃないッ!
なんでもかんでも彼の事ばっかり!
私の思いなんてどうでもいいんでしょう!
もう嫌だ!
もう彼に振り回されるのは嫌なのッ!
私には私の人生があるの!
アイハだけは!
アイハだけは彼に振り回されない人生を送ってもらいたいのッ!!
ウッ…ウゥ…」

「…キキョウ…」

「ママ…ママ、分かった。私のコトをそんなに考えてくれてありがとう。
…でもねママ。あの時言ったじゃない。『一緒にパパの面倒見ていこう』って。今がね、その時だと思うの。パパが起きて、また不安定かも知れない今がね。だからね、パパ迎えに私行くよ。ね?いいかな…ママ…」

ゆっくり背中を撫でながらアイハは私の顔を覗きこんだ。そして鼻水と涙でぐずぐずになった私の顔をティッシュで拭ってくれた。

これじゃあ彼と一緒だ。
私、彼と一緒だ。

アイハが顔にあててくれたティッシュを受け取り、顔を上げてビィーッと鼻をかんだ。ズビッと鼻をすすり上げる。

「よしわかった!アイハに頼むわ!」

「うん!任せてママ!」

「よ…よし、じゃあ頼むよアイハ…キキョウ…いいのかい…?」

「いいの!もういいの!私がぐずぐずしてちゃいけないものね!私は待つ!アイハは行く!可愛い子には旅をさせろっていうしね!」

「OK分かった。それではそれでいこう。ラブイズは7:20発の国際便で日本へ立ったようだ。だいたい夜の8:00頃には向こうへ着く。
アイハ、君は出来るだけ早く準備をしても今からだと夜の10:00を越えるだろう。だからキキョウ。どちらにしても君の父親に彼の保護とアイハの出迎えをお願い出来ないかな?私もラブイズの話を聞いていた限りでは、彼だけのことでは君の父親は来てくれなそうだけれども、アイハがいるなら来てくれると思うんだが…」

「…電話してみる…」

携帯電話を取り出して父に電話をする。
プルルルルル…

「おう」
何年振りだろう。お父さんの声だ。
「お父さん?キキョウ。あのね…」と現状を説明するのに20分程かかった。父は一言、「わかった」と言った。

「何時だ?」お父さんが聞いてくる。

「んと朝の8:00位には彼が着くと思う。アイハはその後10:00頃」

「わかった」

「じゃあ宜しくお願いします」

「わかった」

プツン。

「…ふぅ…」

「私、日本のおじいちゃんに会うの初めて!」

「アイハそういえばパスポートは!?」

「それは今回は急ごしらえで作らせている。とりあえず写真の画像を送るから今撮ろう」

「えー!今ー!髪の毛ぐちゃぐちゃのジャージなのにー?」

「わかればいいんだ。ほら、こっちにおいで」

「うーん。ま、しょうがないか!」

博士に連れられてアイハが研究室の角で写真を撮られている最中、私は自分に落ち込んでいた。

あの日、彼とアイハと一緒に生きていくことを決めた自分がいた。
彼と生きていく覚悟を決めた自分がいた。

それなのに、それなのに私は彼に振り回される恐怖を拭えなかった。

彼が機械に入ってからの6年は彼を心配しながらも穏やかに過ぎて行った。私とアイハと眠る彼の奇妙な生活は、私に平穏を与えてくれた。それが崩れる恐怖が私にはあった。
彼との生活のトラウマが奥深く潜んでいることを私は知った。

かくしてアイハは日本へ行くことになった。とにかく相変わらず彼に振り回されることは分かった。私も取り乱してしまった。

アイハは「ママはママらしくしてていいのよ」と言ってくれるけれども、親として申し訳ない。とりあえず気を取り戻してアイハの旅行の準備をする。2〜3日分の衣服を用意しているとアイハが「自分で出来る」と言い出した。年頃の娘か。服は自分で選びたいらしい。
意外とアイハはオンオフの切り替えはうまく見えて、家ではジャージやスウェットで楽に過ごしているが、外では女の子らしい服装を好む。こちらでは比較的自分に似合う服装を好む人が多いけど、アイハは日本の女の子の洋服に興味があるらしく、ネットで色々お小遣いで購入しているようだ。そうしていると博士が迎えに来た。

空港でパスポートを受け取り、そのまま飛行機に乗る手はずを整えてくれている。10:20フライトだ。今からならギリギリ間に合う。アイハはキビキビと準備を終わらせて博士の車に乗り込んだ。

「じゃあママ!行ってくるね!」

「パパを宜しくね」

「わかったよ!何かあったらメールするね!」

「じゃあキキョウ。行ってくるよ」

「博士…宜しくお願いします」

「うむ」

博士の古いセダンに乗ってアイハはずっと手を振っていた。それからしばらくアイハと彼に会えなくなるなんて、その時は夢にも思わなかった。

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