第十章  《アイハ(17~19)》 -思い-

ママからの電話が無い。たまにメールが来るけどなんか違う。電話しても忙しかったっていうメールばっかり。

むむむ、なんかおかしい。なんだか心配だ。

日本に来てから8ヶ月が経った。こっちは四季がはっきりしていて着るものがたくさん増えた。たくさんいろんなおしゃれが出来るから楽しいケドね!

パパはあれからブシおじいちゃんに弟子入りして毎日大工として働いてる。なんだかたまに二人で銭湯に行ったりして楽しそうだ。時々ブシおじいちゃんに向こうで一緒に暮らそうとか言ってるみたいだけど、ブシおじいちゃんは無視してるみたい。だけどなんだか嬉しそうに見えるんだよ。

私はこの夏、彼ぴが出来ました! イェイ
留学生懇親会で出会ったジニアスは、なんとあの飛行機で出会ったおばちゃんの息子さんで、やけにサカナクンさんを推してくるなーと話を聞いているうちに思い出して意気投合。連絡先を交換してから何回か遊んだある日に「君はサカナクンより魅力的だ。付き合って欲しい」という情熱的な告白を受け今に至ります。

いやー彼氏っていいもんですね!

なんだかパパに似ていて頭は固いんだケドいちいち面白いんだよね!

パパに話したら「一度連れて来なさい」と静かに怒ってたケド、連れて来たら二人とも日本びいきなものだからやけに仲良くなっちゃって、今では3人で日本のドラマを見る日々が続いてる。

最初はサカナクンさんが被っているあのハコフグの帽子を被っていたケドそれは二回目のデートで止めさせた。顔はいいのにサカナクンハットのギャップも最初は腹がよじれる程笑ったのも、それはジョークじゃなく、本気でサカナクンさんをリスペクトしていることに気付いた時にドン引きしたからだ。彼は悲しそうに大切にハコフグハットをバッグにしまったことを覚えている。ちょっとゴメンて思ったケド恥ずかしいじゃん。

そうそうママのことだ。

最初は私のことを諦めたのかと思ったら、どうやらブシおじいちゃんのことで思うことがあったみたいなのは感じていた。

パパはブシおじいちゃんはまさしく“サムライ”だと言っていた。
そこは“武士”だと何回か話をしたケド、大人の固い頭ではサムライと武士の微妙な違いは理解出来ないみたい。ただ、ブシおじいちゃんは頑なに『変わらない』ことを信条としていることを感じていると言っていた。

私はブシおじいちゃんは『変わらない』のではなくて『変われない』のだと思っている。何か、きっとそうとしか生きることが出来ないんじゃないかって感じてる。ただ、融通の効かない昔気質のブシおじいちゃんには、幼いママを育てることはいささか問題があったんじゃないかなと思う。自分で自分のことが出来るならいいケド、出来ないうちから何も言わないのは今なら育児放棄だと言われても仕方ないもんね。きっとママは幼い頃から一人で生きてきたんだと思う。なんだかそう感じる。私は向こうでたくさんの自己主張のある人達と暮らしてきたから、ブシおじいちゃんのようにあまり話さない人は珍しかった。日本はあまり自己主張をする人が少ない。それは北へ行く程顕著に表れると学校で習った。

『文化と風習』

元々日本は大陸から人が戦いを避けて移り住んだ種族だと言われていて、南に狩猟民族、内陸に農耕民族が根付いたと言われている。
自然に神を置きどんなものにも神性を見出だす日本人は、あらゆるものを受け入れてその神性を見出だすことに特化している。それが世界に技術をもたらしていることに起因しているようだ。
狭い島国だからなのか、相互に助け合う精神が根付いており、個というよりも集団に重きを置いて発展してきたとのこと。集団からはみ出した人達は村八分として端へ追いやり、集団としての力を固持していたようだ。

その話を聞いた時にブシおじいちゃんと重なった。やたら自分を語らず、じっとただそこを守り続ける。日本人としての気質もあるのかも知れない。ただ、やっぱり現代は違うと思う。ネットがこれだけ浸水している中で、匿名で意見を言える場が増え、日本人にも少しずつ“違うと思う”が言えるようになったんだと思う。

でもママの世界は違う。頑ななブシおじいちゃんと何もわからない小さなうちから一緒に居たとしたら…ブシおじいちゃんは毎日お菓子を買ってくれるケド、それが主食のようになっていたら当然身体を壊してしまうと思う。それはママが小さい頃から教えてくれたことだ。ピーマンもホントにイヤだったけど、その度にママは食べるものの大切さを教えてくれた。
『食べたものから身体は作られて、心も作られるんだよ』って。私がご飯を作らない時、ブシおじいちゃんは缶詰めとお酒ばかりで、とても料理をするようには見えない。

そしてブシおじいちゃんは何も喋らない。聞いても対して教えてくれない。私ならまだいいケドこれが幼いママなら…今ママは何を考えているんだろう…いつもメールの返事は、『あなたの思うようにやってみなさい』と来るようになった。『ママは仕事が忙しくなったから』と来るようになった。でもママはパパと私と暮らしたかったんじゃなかった?もうどうでも良くなった?いいや、ママに限ってそんなことは無い。

一旦帰ろ。んで、ママの様子を見てこよう。そうだ。そうしよう。まずはパパに相談するか。

その日の夜、パパと話をした。

「ねぇパパ」

「なんだいアイハ?」

「一回家に帰ってくるわ。パパ一緒に行こう?」

「…」

目が一点になり私の目を見つめて行動が停止する。いつもパパが考え事をする時の癖だ。

「…よし行こう。ただおじいちゃんにも聞いてみないとね。今仕事が一段落したから大丈夫だと思うけれども」

「わかった。理由は聞かないの?」

「ママのことだろう?」

「そうだけど…」

「なら行こう。パパもそろそろ行かなくてはならないと思っていたんだ」

「ブシおじいちゃんのことはいいの?」

「いいさ。たくさんのことに気付かせてもらったから。おじいちゃんのことをわかった訳ではないけれども少し通ずることは出来たと思うからね」

「もう向こうに帰るの?」

「わからない。ママが必要とするなら」

「…ママは…多分パパが必要だと思う」

「アイハがそう思うならそうなんだろう。じゃあ帰ろうか」

「ん…わかった」

「よしおじいちゃんに話そうか」

「うん……でも……」

「…そうだね。きっとおじいちゃん淋しいよね」

「うん…」

「大丈夫。また来たらいいさ、ここはアイハのもう一つの家なんだから」

「うん…」

「アイハ、君は優しい子だ。だからその気持ちだけあれば大丈夫。一つ一つ目の前にあることを一所懸命に取り組めば必ず道は拓けるんだよ。今度はママの番なんだろう?」

「うん…」

「…アイハ、抱っこしようか」

「え!?いいよいいよ!もうアタシ大きいんだしさ!」

「いいからおいで」

「ぅ…ん」

パパに手を引かれあぐらをかいたパパの上にちょこんと座った。なんだか安心する。パパの匂いがする。そういえばこうやってパパに抱っこされるなんで小さい頃以来だ…

「アイハ…」

「うん…」

「いつもありがとう」

「…うん」

「いつもパパや、ママや、おじいちゃんのことを考えてくれて、ありがとう」

「う゛ん…」

鼻の奥がジンとして喉が詰まる。

「アイハのおかげでパパもおじいちゃんも幸せだよ。今度はママの番だね」

「…ぅ゛ん…」

「アイハありがとう。パパの娘で居てくれてありがとう。産まれてきてくれて、ありがとう」

「ぅ゛…バパぁ゛…」

「愛してるよアイハ。君は大丈夫かい?」

「ぁ゛あ゛ん…バパぁ゛バパぁ゛…」

「うん、辛かったなぁ。ごめんな、こんなパパで…」

「ぅ…ぐ…バパぁ゛…バパぁ゛…」

「うん、うん」

「ぅ゛え゛え゛え゛え゛……ぅ゛え゛え゛え゛え゛……」

パパの胸で泣いた。私も我慢していたのかも知れない。パパはずっと髪を撫で続けてくれた。その時、パパが、本当のパパになってくれたような気がした。

そしてその日は泣き疲れて私はそのまま寝てしまった。

————————–

う…ん…

なんだかいい匂いがする。お味噌汁の匂いだ…あぁ寝ちゃったんか。時間を見るとまだ4:30だ。眠い目をこすり起きるとブシおじいちゃんが台所に立っていた。

「…ブシおじいちゃんおはよう…」

「おぅ」

「ごはん作るよ?」

「座ってろ」

「うん…」

トイレに行ってぼんやり居間に行く。

ポヤポヤしていると朝ごはんが並びだした。

あさりのお味噌汁
炊きたてのご飯
焼き鮭
海苔の佃煮
お漬け物

ぷぅんと湯気のたっていい匂いだ…

「これ…ブシおじいちゃんが作ったの?」

「おぅ。アイツ起こしてこい」

「はぁい」

トコトコトコ

「パパー朝ごはんだよー」

クカークカー

「パパー」

クカー

トコトコトコ

「パパ起きない」

「…じゃあ食え」

「はぁい!いっただっきまーす!」

ヒョイ
パクッ
モグモグモグ…ンマイ!

「美味しいっ!」

「ん…」

ブシおじいちゃんは耳を真っ赤にして新聞を見てる。勢いよくご飯を頬張ると、横目でブシおじいちゃんはチラリとこちらを見て、ヘンテコな顔でニヤニヤしていた。

「ブシおじいちゃん?」

「オホン!ん…」

「なんで朝ごはん作ってくれたの?」

「ん…」

「“ん”じゃわかんないよ」

「ん…」

ダメだ。耳真っ赤出し、頭も赤くなってきた。ブシおじいちゃんコレ怒ってるように見えるんだよなー。照れてるダケなんだケド。

ムム!鮭が秀逸です!このふっくらと、そして程よい塩加減…匠(たくみ)ですな…!やるなぁ。仕事が丁寧だよね。愛情こもってる。あまりに美味しすぎてご飯をおかわりしてしまった。

「あー旨かったァーゲフゥ」

食事が終わるとブシおじいちゃんは私の食器をカチャカチャと片付け始めた。

「あ!私やるよ!」

「休んでろ」

あ…はい。朝から食べ過ぎたナァ。おなかいっぱい!ジャーッと洗い物の食器をブシおじいちゃんが水に浸していく。

トコトコトコ
「ブシおじいちゃんアリガト。とっても美味しかったよ」

「…おぅ」
また赤くなってる。ふふふ可愛いー。

「行くのか…」

後ろ姿のままブシおじいちゃんが言った。パパから聞いたのか…

「うん…行ってくる」

「そうか…飯…んまかったか?」

「うん!とっても美味しかったよ!あのあさりがね…」
「アイツにも…食わしてやれば良かったなぁ…」私の言葉を遮るようにブシおじいちゃんは言った。

「……私、ママ連れてくるよ。そしたらまた作ってくれる?」

「…」
ブシおじいちゃんの肩が少し震えていた。その言葉は小さくて聞こえなかったけど、多分「おう」だと思う。不器用なブシおじいちゃん。きっと精一杯の愛情表現だったんだろう。胸の奥がきゅぅんと締め付けられる。

「ブシおじいちゃんッ!」
後ろからブシおじいちゃんに抱き付く。

「おッ!こら!止めッ!」
初めて見るブシおじいちゃんのうろたえ。止めない。

「アタシ、ブシおじいちゃん大好きだよ!いつもありがと!毎日買ってくるお菓子も、頼んだらすぐ連れていってくれたりとか、今日もごはん作ってくれたりとか、たくさんたくさんありがとう!でもね!一番好きなのははアタシのこといつも好きでいてくれていること!だからアタシもブシおじいちゃん大好き!!」

その時、ブシおじいちゃんの動きがピタッと止まった。

「真津子…」

ふと呟いたおばあちゃんの名前。

水道から流れ出るジャーという音だけが、一瞬訪れた静寂な時間に聞こえていた。

「ふぁ〜あ、おはよう…」

「あ!おはようパパ!ブシおじいちゃんね!朝ごはん作ってくれたよ!」

「食え…」

いつもの憮然としたブシおじいちゃんに戻った。

パパは寝癖満開の髪の毛をボリボリ掻きながらちゃぶ台についた。
馴染み過ぎ。

一昔前のパパからは考えられない位朝のダメオヤジを演出している。昔のパパも寝癖ボンバーだったケド、朝からキリッとしてたもんなー。

「もう…いいか…?」

あ!ブシおじいちゃんに抱き付いたまんまだった。

「はい!」

パッと離すとブシおじいちゃんはコンロに火を入れてお味噌汁を温め直した。

トコトコトコ
「パパ」

「うん?」

「ブシおじいちゃんに話したの?」

「うん、話したよ」

「いいの?」

「うん、いいよ」

「そうなの?」

「そうだよ」

「そっかぁ」

「うん」

そう言ってパパはブシおじいちゃんが読み掛けの新聞を無造作に手繰り寄せた。

「いつ行くの?」

「今日」

「今日!?飛行機は?」

「予約した」

「早!」

「うん」

「ママには?」

「言ってない」

「なんで?」

「遅かったから」

「そっかぁ」

「うん」

カチャカチャとパパの食事が並べられていく。

「ブシおじいちゃんいいの?」

「おう」

ダメだこの男共。会話を欠き消されていく…まぁいいか。行くのは決めたことだし。

「パパ、何時の飛行機なの?」

「10時」

「ちょ!!10時なんてすぐじゃん!荷物荷物!」

私が急いで準備をしている間、パパは優雅な朝食を取っていることに微かな敵意を覚えた。パパめ…

「パパー!自分の準備は自分でしてねー!」

「おー」

!!ブシおじいちゃんの真似してるッ!ただブシおじいちゃんの“おぅ…”には円熟さがは程遠い!むぅーパパめー!ブシおじいちゃんのマネばっかりしてー!所詮騎士止まりなクセにー!武士とサムライの違いもわからないクセにーッ!…とそんなことを考えながら準備していたら、あっという間に出発の時間になった。

———————–

「…じゃあ…ブシおじいちゃん行ってくるね」

「おぅ」

「お父さん、本当にお世話になりました」

「おぅ」

「ちょっと!また帰ってくるんでしょ!」

「うん、まぁ挨拶だよ」

「もう!ブシおじいちゃんまたね!」

「…おぅ…気ィ付けてな…」

なんだか淋しそう。

「おい」とブシおじいちゃんがパパに話し掛けた。

「はい」

「アイツ…頼むな…」

「はい…!」

ブシおじいちゃんがパパに頼むなんて初めてみた。

“1番線に新千歳空港行きが参りますー白線まで下がってお待ちくださいー”

「あ、電車来た」

「じゃあお父さん、行ってきます」

「おう」

「ブシおじいちゃん!」

「おう」

「これ!」と私が被っていた毛糸の帽子をブシおじいちゃんに被せた。

「な…」

「行こ!パパ!」

「あ、あぁ」

ブシおじいちゃん固まってる(笑)

トゥルルルルルルル…

「ブシおじいちゃんそれ貸したげるからー!」

「…」

プシュー…ガコン。電車が動き出す。

私には聞こえていた。ブシおじいちゃんが小さな声で「おう」と言ってくれたことを。

行きの電車の途中、パパとお話した。

「パパ」

「ん?」

「ブシおじいちゃんの気持ち、わかった?」

「うん…少しね」

「どんなカンジ?」

「う〜ん…そうだなぁ…一言で言えば“生《い》き様《ざま》”かなぁ」

「生《い》き様《ざま》?」

「そう、“生《い》き様《ざま》”。生きていく方向性とでもいうのかな?おじいちゃんは確かに淋しかったかも知れない。だけど、それよりもおじいちゃんはああいう生き方を選んだんだと思うんだ」

「あ〜そうかも知れないね」

「思考の方向性が人生を決めるとした時、おじいちゃんは昔そういう生き方をするって決めたのかも知れない。逆にそういう生き方しか選択肢が無かったのかも知れない…だけどパパ、おじいちゃんと一緒に働く中で、すごくおじいちゃんが周りに信頼されていることを知ったんだ。

みんな言うんだ。“葉内の棟梁に任せておけば狂いは無い”って。
パパもやってみてすごくおじいちゃんに怒られたんだけど、ミリ単位で木材をカットしていくのに、少しでもズレていると全部やり直すんだ。無口なおじいちゃんだけど、お酒が入ると仕事の話は少し話してくれた。“何十年も人様が使う住まいだ、だから一切の妥協は許さん”ってね。

あのアパートね、ブシおじいちゃんが初めて棟梁で建てたアパートなんだって。自分の建てたところがみんなの生活の基盤になっていることに、誇りと責任感を感じたよ。だからおじいちゃんが言っていた“守っている”というのは、ママが帰って来ることという意味もあると思うけど、自分が建てた家やアパート、マンション、そしてそこに住む人達のことだと、パパは思うんだ」

「…そうかぁ…」

「うん、それがきっとおじいちゃんの生きざまであり、生きる方向性に繋がっているんだと思う。そして、だからパパはそれからおじいちゃんと向こうで暮らそうってあまり言わなくなったんだ」

「なるほどなぁ…」

「アイハはどう思う?」

「う〜ん…私はやっぱりみんなで暮らしたいカナ…そうは言っても家庭があっての仕事でしょう?パパが居なかった時、小さい頃はお仕事でしばらく会えないんだよって聞いて、淋しかったもん。それが周りのみんなの為でも、私は淋しかったから……うまく言えないケド、近くの人に淋しい想いをさせたらダメだと思う」

「そうか。そうだね。アイハの言う通りだとパパも思う。ごめんな、淋しい想いをさせて…」

「いや!今はパパもいるし寂しくないんだよ!ただその時は…ね…」

「ママもそうだと思ったんだろう?」

「うん…なんだかね…メールがおかしいカンジがしたんだ…聞こえてこないママの悲鳴が聞こえた気がした…あ!ママに連絡しなきゃ!」

「うん、頼むよ。…なぁアイハ」

「なぁにパパ?」

「パパのせいでたくさんごめんな」

「え!あぁ!いいんだよ!パパ今一緒に居るし!」

「ごめんなアイハ…」

パパが涙ぐんでいた。私もなんだか涙が出てきた。
たくさんの思いや想いが人にはあるんだと思った。

私は…私はどうやって生きていこう。

何かを守ると生きた時、私には家族しか考えられない。けれどそればかりが人生じゃないというのもわかる。

人は何の為に生まれて、何の為に生きているんだろう。

たくさんの人が電車には乗っていて、あの人にもあの人にも一人一人の思いと人生がある。たくさんの人が生きる世の中でみんな何の為に生きているんだろうか…

私はただ笑って生きている。ただ毎日が新鮮で、そんなことを考えたことなんて無かった。

“生きる”ってなんだろう…

そう思いながらママにメールを送った。

『to ママ』
『今日帰るからね〜!遅くなるかも知れないケド宜しくね!ママのグラタン食べたいよ!』

うん。こんなカンジで。

…ふと、私は気付いた。

メールは文章を考えて送る。そこに全ての本音と感情は伝わりにくい。ふとしたメールが誰かを傷付けた経験があった。そして誰かに傷付けられた経験もあった。だから文字を入れる時に自然と気を遣うようになった。

それは全て本心だっただろうか?

違う。相手を気遣うことも多かった。今もそうだ。ママの様子がわからないから、当たり障りのない言葉を探していた。

いつかママが言っていた。『メールで伝わる気持ちは半分の半分』だって私にはママの気持ちの4分の1しか伝わっていなかったとしたら…

………

……………

…………………

「…パパ、《《最速でママのところ》》へ」

「わかった。“最速でママのところへ”だね」

「そう」

「OK。何かあったのかい?」

「わからない…わからないから、そんな気がする」

「ふぅむ…」

それからお互い簡単な会話以外は黙ったままだった。
日本を発つ時も飛行機の中でも。

そして私達は戻ってきた。着いたときは夕方に差し掛かっていた。時差があるから飛行機に乗った時刻と同じくらいの時間だ。気だるい身体を引き起こし家に向かう。ママからの連絡は無かった。それが余計足を早ませた。

ママ…
ママ…!

タクシーに乗りながらずっと祈り続けた。急激にママに会いたくなっていた。日本にいた時はパパのそばにいなきゃと、パパのお世話をしなきゃと、
それがあれば自分が日本に居ることが出来て、新しい刺激的な外国での生活が出来る。そう考えていた。パパの為といいながら、自分の為にそこにいた。そうやってママをないがしろにしていた。ママが本当は何を考えていたのか。考えてもいなかった。本当は何もないのかも知れない。家に帰るといつも通りのママがグラタンを用意しているのかも知れないー
隣ではパパが私の手をずっと握ってくれていた。

———————–

家の前に着くと、もう陽が暮れているにも関わらず中に灯りの様子は無かった。
タクシーを飛び出し、一目散にドアへ手を掛ける。
ガチィン!
鍵が架かっている!
急いでタクシーまで戻り、荷物を漁り鍵を取り出す。

あった!鍵を持って玄関に走り、開ける。
ガチャリ…そっと扉を開けると、ぷぅんと異臭が鼻についてきた。

「…ママ?」

恐る恐るリビングの戸を開けると、中は至るところに乱雑に放られたゴミ袋があり、空のペットボトルやお酒の瓶が散乱していた。

「あ、あれー?ママー?どこー?」

ゴミ屋敷さながらのリビングを抜けてキッチンに向かう。

いない。

「ママー!」

今来た道を戻り、お風呂場、寝室に向かう。

「ママー?」

返事は無かった。自宅とは思えない空虚さだけが漂っていた。

「…居ないか…」

「パパ!ママが!」

「うん。パパもこうなった事あるからわかるよ。確かにママはアイハが言った通り不安定になったようだ」

「パパ…!パパ…!」

振り向いてパパの姿を見たら、急に足がガクガクと震え出し、立っていられないくなった。身体中から力が抜ける。

「アイハ、大丈夫だ。とりあえずは座りなさい」
パパに手を引かれ、ベッドにへたり込む。震えが止まらない。

「ママは…?ママは…?」

視点が定まらずに目が泳いでいるのがわかる。わなわなと怯えにも似た震えが全身に拡がる。

「大丈夫だよアイハ。大丈夫」

パパが肩を抱いて、ぐっと力強く支えてくれた。

「ママ…ママ…!」

「大丈夫アイハ。大丈夫だ」

プルルルルルル…
プルルルルルル…

その時リビングの電話が鳴った。

「アイハ、ちょっと待っていてくれるかい?ちょっとだから。いいね、そこにいるんだよ」

そう言いながらパパはリビングに向かい電話を取った。ここからでは何を話しているのか聞こえない。ママの匂いのするタオルケットを身体に巻き付けてリビングに行くと、顔面蒼白のパパがそっと受話器を置いた。

「…パパ…?」

「…キキョウが…マシンに入った…」

パパは宙を見ながらこちらを振り向かずにそう言った。博士のおじいちゃんからの電話だった。すぐさま車でパパと博士の研究室へ向かう。

ママ…どうか…どうか無事でいて…!ママ…ママ…!

固く両手を合わせながら祈り続けた。ふとパパを見ると歯を食い縛りながら、険しそうな、そして悲しそうな、苦しそうな顔をしていた。

「パパ…」

「だ…大丈夫…大丈夫だ…大丈夫…」

まるで一人言のように呟きながら、猛スピードで車を走らせていた。
パパも…パパも不安なんだ。そして多分、自分を責めている。

「パパ…」

「大丈夫…だ大丈夫…大丈夫だ…」

「パパッ!」

キィッ!急ブレーキで車が止まる。身体ごと前のめりに持っていかれ、その反動でシートに戻る。

「ななんだい?アイハ…」

こっちを向いたパパは真っ青な顔で冷や汗をかいていた。

「…あそこのコンビニに寄って」

「あ…キキョウ…あ…」

「あそこのコンビニに寄って!」

「あ…トイレなら研究室に…」

「あそこのコンビニ寄って!!」

「あ、ああ…」
ブロロロロ…とコンビニの駐車場に車を停めてもらう。

…鼻から大きく息を吸って…口から細く吐き出す…
…鼻から大きく息を吸って…口から細く吐き出す…

吸って…
吐いて…

吸ってー…
吐いてー…

そうしながらミネラルウォーターを2本買い、車に戻った。

「…はいパパ」

「あ…ああ、じゃあ行くか」

「待って!」

「どうしたんだいアイハ?」

「一回落ち着こうパパ」

「いや…キキョウが…」

「パパ!」

「はい!」

「一回落ち着こう?」

「…うん…
うん…そうだね」

「“慌てた時に落ち着く魔法”…知ってる?」

「“慌てた時に落ち着く魔法”?」

「そう、小さな頃よくママに教えられたの…はい、パパも一緒にやろう」

「う、うんうん」

「まず外に出ようか」

「は、はい」

「大きく息を吸ってー…」
スゥー
「吐いてー…」
ハァー
「また吸ってー…」
スゥー
「吐いてー…」
ハァー
「何回か繰り返したら、楽に息をするの。そしたらハイ、お水飲んで」

ごくごくごく…

「落ち着いた?」

「あ、ああ…まぁ…」

「私ね、癇癪持ちだったからよくママにやらされたんだ。その後“怒りで自己表現してはいけません”って言われてね。“怒りの裏には不安があって、不安の種から感情が囚われる”これ、パパの言葉だよね」

「あ…ああそうだ…でも…」

「落ち着こうパパ。私もそうだけど。私ね、パパがああなったの何回か見たことがある。私も取り乱してるけど、ママがいつも“心が不安になったらまず落ち着こう”ってさっきのやってくれたの。でもザワザワは取れないケド、きっと今がその時だと思ったの」

「アイハ…」

「ママがいつも言ってたの。“自分の思い通りにいかなくても周りのせいにしちゃいけません”って。ママがいつも言ってたの。“あなたはあわてん坊だから落ち着く方法を学びなさい”ってママがいつも言ってたの。“心が不安だとロクなことが起こらないよ”って。ママが…」

「…わかった…わかったよ…ありがとうアイハ。パパ、もう大丈夫だから…」

「ママが…ママが…」

「アイハ!」
ハッとした。

気が付いたら泣いていた。身体の震えが止まらなかった。膝がガクガクして、心はそこに無いようなカンジがして…

ママ…
ママ…

「アイハ!アイハ!」

パパが私の肩を揺さぶっている…

「パパ…」

「わかった!わかったよ…!」

そしてガッシリとパパに抱き締められた。

あぁ…
パパの匂いだ…

ママ…私いい子になれたカナァ…いい子になったらパパが帰って来るんだもんね…パパが帰ってきたからいい子になれたのカナァ…ママの言い付け守ってるよ…ママ…

ママ…

その内身体がガクガク震え出して、私は急に目の前が暗くなっていった。

「…アイハ!アイハ!」
遠くでパパが私を呼ぶ声が聞こえた。そして目の前が真っ暗になった。

————————–

「……!」
「……!」

何やら声が聞こえる…

パパとサイトウおじいちゃんの声だ…

あ…私…気を失ったのか…

なんだか頭がぼーっとする…

………!
「ママッ!」
掛けられた毛布を跳ね除けて飛び起きた。

「…起きたか…」

「アイハ…おじいちゃんを許してくれ…」

…許す?

「ママは…!?ママはどこ…!?」

「…ママは…マシンに入ってしまった…」

「パパが入ってたやつ!?出れないの!?」

「まず4ヶ月は無理だ…身体が安定してからじゃないと危険すぎるんだ…」

「ああ…アイハ…アイハ…おじいちゃんが悪かった…おじいちゃんが…」

「サイトウ…話はわかった。とりあえず落ち着いてくれないか?
アイハ…ママはとりあえずマシンによって生命は維持される。ただプログラムの無いこの状態は、無限の砂漠を宛てもなく歩くようなものだ。
パパが何とかする。アイハ…君の力が必要になった。一緒に…ママを助けよう。その前に…サイトウ…ジニアスをアイハに近付けた理由はなんだ?」

何!?ジニアス!?ママは…時間が…掛かる…?ん?ジニアス?

「いや!近付けてなんていない!本当だ!」

「…私はジニアスを注意深く観察していた。そして先程サイトウの話を聞いて、全てが繋がったんだ。ジニアスはこの大学から日本へ留学していただろう?そしてアイハと私と知り合うには都合が良すぎる。私やキキョウだけではなく、アイハに…アイハに何をしようとしたんだッ!!」

「誤解だラブイズ!確かにジニアスは古い友人から頼まれた人間だ!ただ君達と出会ったのは全くの偶然なんだ!本当だ!信じてくれッ!」

「…サイトウ…今までの話を聞く限り、私もキキョウの意見に賛成だよ…サイトウ…あなたは私の母に囚われて、私の家族を利用していると私も思う。ただ…サイトウ…いや……父さん…父さん…ずっと思っていた…サイトウが父親だったならって…だから父さん…もう、母さんのことで苦しまないで欲しい…私は…ただ家族を大切にしたいんだ…これから…これからの家族を…」

「ぉオォおぉォオおおぉオォ…!」

サイトウおじいちゃんが泣き崩れていく。

「パパ…」

「アイハ、今は少し待ってくれ」

そう言いながらパパは私とおじいちゃんの間に身体をずらし、私の視界からおじいちゃんの姿を隠した。

「…父さん……もう…充分だよ…私は感謝しているよ…あなたが、母や私や、キキョウやアイハの為にどれだけ骨を砕いてくれたかを…
…ただそれは、気持ちはわかるんだが、あなたの歪んだ愛情だよ…私もそうだったから…あなたの気持ちはほんの少しかも知れないけれど…わかる気がする。だから…だから私はあなたを許すよ…父さん…私達はもう、家族だ。切っても切れない因果律に組み込まれている。だから…だからこれ以上、アイハやキキョウを傷付けないで欲しい…」

「パパ…」

「うぅ…ラブイズ…ラブイズ…君をずっと見ていた…マリーの笑顔の糧になるならと…ずっと見ていたんだ…私はマリーと結婚したかった…マリーと…君と…家族になりたかったんだ…そして…そしたら…マリーが幸せになれるんじゃないかって…
しかし…マリーはそれを望んでいなかったから…私ではだめだったんだ…私では…
私ではマリーを幸せにしてやれなかったから…

だから…
だからラブイズ…

君にマリーを託したかったんだ…
君は…マリーの息子だから…

…私は…どんなに頑張っても…マリーの家族にはなれなかったから…

…だから…もう…私の役目は終わったと思ったんだ…私の人生の集大成である、あのマシンで眠りにつきたかったんだ…」

「…うん。わかる…わかるよ…私もそうだったから…父さん…私達はもう家族だよ…だから、これからも一緒に居よう。私はこれ以上私の家族が傷付くのは嫌なんだ。それは私のエゴかも知れない。けれど嫌なんだよ。

父さん。キキョウの記憶の中で、どうしてもキキョウの思考の方向性に思えなかったところが多々あったんだ。それはキキョウの遺伝子に関わっていると思い、キキョウの父親に会ってきた。だけど、違っていた。あれは…父さんの思考の方向性がプログラムされていたんだ…相手を必死に守ろうとするエゴイズムは、時として相手を傷付けることを経験したよ。けれど…それでも…いや、それだから…人はより深い愛情に辿り着けるんだと、今はそう思うんだ…
父さん…私達はまだやり直せる。だから力を貸してくれないか?」

「ラブイズ…私を父と呼んでくれるのかい…?」

「ああ…父さん…いつも本当にありがとう」

「たった一人…息子だと思っていた君が…父と呼んでくれた…!たった一人だと思っていた…!いつも一人だと思っていた…!こんなに…こんなに嬉しいことはない…!」

むせび泣くおじいちゃんの姿は、何かに囚われていた心が解放されたかのように見えた。

「父さん…アイハを…アイハを一緒に守ってくれるかい…?」

「もちろんだ…!もちろんだとも…!!」

パパがおじいちゃんの背中に手を置いてゆっくりと撫でていた。もう一つの手をおじいちゃんは震えながら両手でがっちり握っていた。

—————————-

それから3人で話し合いが始まった。私達が日本へ発ってから今日までのことをおじいちゃんから聞いた。マシンの中で眠っているモニター越しに見るママは今何を思っているんだろう…おじいちゃんの気持ち、わからないでもない。ただ、やっぱりそれは間違いだと思う。そんなおじいちゃんをパパは“許す”と言った。

“許す”…

ママがこんなになったのは私のせいだ。私は私が許せない。パパは私の力が必要だと言った。なんだろう…

「…パパ…これから何をすればいいの…?」

「うん、まずはママをこちらの世界に呼び戻さなければならない。その為には今、思考の無限砂漠にいるキキョウの思考に道筋を立てなければならないと考察する。だからまず、以前プログラムしたママの記憶をまた辿らせる。…ただ今のキキョウに耐えられるか…
そこの懸念を打破する為に以前から理論立てていたもう一つのマシンを構築する。それはお互いの思考をナノマシンの媒介によって通じ、相手の思考に干渉し合えるマシンだ。これを造る。なんとしても…なんとしてもだ。

…おそらくキキョウは負の思考のスパイラルに落ち込んでいるだろう。それを救うためには…アイハ、君の記憶が必要だ。アイハの記憶を持って、私はキキョウの元へ向かう。

君とキキョウ、二人の記憶は何物にも替え難い絆で結ばれている。パパはそれを信じている。

その前に…ジニアスの件を払拭したい。悪いが父さん。私はまだあなたを全て信用している訳ではないんだ。あまりにも仕組まれた人生を歩んだ私にはとても偶然とは思えない」

「パパ…ジニアスの何がそんなに…私が直接聞いてみようか?」

「いや、彼も操作されているとしたら、彼に何を問い質しても無駄だろう。彼に指示した人物がいるはずだ。それが父さん…あなたは知っているはずだ」

「…ラブイズ…私は本当に知らないんだよ…ただ今の話を実現させるなら、どの道相談しなくてはならない人がいる。

…しかしラブイズ…君の考えはベストとは言えなくとも現時点ではかなり有効な施策であろう…しかし今回のキキョウにはイレギュラーが多すぎる。君のように身体作り、システム構築等万全な状態でマシンに入った訳ではないんだ。

私は4ヶ月後、緩やかにキキョウを覚醒させる方が現実的だと進言するよ。
しかし空っぽの思考を4ヶ月続けた後に覚醒を施しても、君と以前考察した通り、植物状態になる確率は高いだろう…

君の考える思考干渉装置も以前に二人で理論構築は済んでいるが、あまりにも現実離れし過ぎている。そもそもシナプスの電気信号の個人差をどう解消していくかはまだ試作品すら出来ていないんだ。

仮に君の言うシステムを構築するにはキキョウのシナプス信号を解析、再現してから君のシナプス信号にリンクさせなければならない。
そしてその為のコンピューターの構築も一から始めなければならないんだ…
それはまるで一キロ先の針の穴に望遠鏡を用いて遠隔操作で糸を通すより現実的ではないだろう…

…キキョウの気持ちを尊重して、静かに休ませてあげる方がいいかも知れないと…おこがましくも私は思うんだ…」

「それでも!それでも出来ることはなんでもやりたいッ!アイハにも…私にもキキョウは必要なんだ!確かにそれはエゴかも知れない!だけどこのまま、キキョウの幸せを叶えることが出来ないなんて私には耐えられない!」

「パパ…それじゃあおじいちゃんと一緒だと私は思うよ…“私が”じゃなくて“ママが”何を望んでいるのか、今は考えるべきだと思う。

ママは…ママはきっと寂しかったんだと思う…パパが居なくなって、いつも支え合ってきた私も居なくなって…何の為に生きてきたのかわからなくなっちゃったのかも知れない…そしてこの状態を今ママが望んだとしたら…いや…でも…

…私だったら本当は家族と一緒に居たいと思う。私、日本に行って自分のアイデンティティについてたくさん考えたんだ。何を持って自分が自分とするのか。私はハーフだから、どちらの血筋を持ち合わせていて、風土や環境が違うどちらの考え方にも馴染めるケド、それは裏を返せばどちらにも軸を置ける自分の考えが揺らぎやすくともあったんだ。自分を支える根底の何かを考えた時、やっぱりパパやママの考え方が基本になっている。それは育ちや環境が密接に関係あるんだと思うんだ。

パパ…ママの根底には孤独からくる寂しさが混在していると思う。

だから…えーと…やっぱり、家族で温かく暮らすことが大事なんだと思うんだ。なんだかうまく言えないんだケド…でも…やっぱり私もワガママだと思うんだケド…私も家族で一緒に居たい…パパとママと…三人で一緒に居たい…ママ…ママに…ママに会いたい…ママに会いたい…

会いたいよぅ…パパぁ…ママに…ママに会いたいよぅ…」

胸がぎゅうっと締め付けられる。ぐぅっと拳を胸に押し込んでも、押し潰されそうになる胸の奥の苦しさが息を詰まらせる。

「アイハ…」
パパが私の頭を胸に抱き寄せてくれた…
パパ…ママに…ママに会いたいよぅ…さめざめと涙が止まらない…

「…どちらにしてもまずは4ヶ月の猶予がある。そして君達に紹介しなくてはならない人物がいる。私のもう一人の親友だ…その人に会いに行こう…」

そう言うとおじいちゃんは電話をしに行くと言って部屋を出た。

「OKが取れた。これから行こう」

おじいちゃんは帰ってくるなりそう言った。

「…どこに行くと言うんだ?向こうが来るのが礼儀じゃないのかッ!?」

「すまないラブイズ…落ち着いて聞いてほしい。向こうはなかなか忙しくてね…私でも容易に会うことは難しいんだ…私の車で行こう。丁度一時間程のところにある邸宅だ。道すがら、これから会う彼の話をするよ。ラブイズ、君にも浅からぬ関係だからね…」

そう言うとおじいちゃんは車のキーを机の引き出しから取り出した。釈然としない表情でパパはおじいちゃんを見詰めていた。

「さぁラブイズ…アイハ…行こう」

私達は飲み掛けのコーヒーをそのままに部屋を後にした。

———————–

「さて…どこから話そうか…」
とおじいちゃんは話し出した。

おじいちゃんがスラムで生きてきたこと
おばあちゃんとの出会い
おばあちゃんの悲しい環境
おじいちゃんとその人との出会い
そしておばあちゃんを守る為に生きてきたその道程
その中でその人の力を借りてパパとおばあちゃんを助けてきたこと
おばあちゃんの笑顔だけがおじいちゃんの生き甲斐であったこと…

そしておじいちゃんはその全てを仕組んだことだと、パパに申し訳なさそうに話していた。

パパは助手席で腕を組み、難しい顔をしながら憮然と黙っておじいちゃんの話を聞いていた。

私は…私はそれでもおじいちゃんからパパに対する愛情を感じた。確かにそれはおじいちゃんの歪んだ愛情から発祥したものかも知れない。けどそれは、おじいちゃんはおばあちゃんの為にずっと頑張ってきたってことでしょう?それは、おじいちゃんの気持ちの発生は、おばあちゃんの為でしょう?自分のことじゃなくて、人の為なんでしょう?

「思考の方向性…」
パパが口を開いた。

「そうだ…“思考の方向性”だよラブイズ…」

「何パパ?どういうこと?」

「うん…おじいちゃんが人の為を思う気持ちは素晴らしい。素晴らしいことなんだ。それはパパとおじいちゃんがずっと研究してきたことでもある。
ただ…奇妙なものだね。その道の権威と言われ、その方向性を誰よりも研究してきたおじいちゃんはその道を誤ったんだ」

パパはおじいちゃんがそこにいないかのように話をした。

「誤った?」

「我ながらまるで喜劇だと思うよラブイズ。私自身、正しい思考の方向性を探し求めたのはその実、私自身の為だったのかも知れないね…」

「…パパどういうこと?」

「おじいちゃんはね、生きる方向性を間違えたんだ。本来意思の疎通は双方向であらねばならないだろう?お互いにお互いの気持ちがあり、そこをコミュニケートしながら一つの気持ちを作っていくのが理想とされる。だからコミュニケーションがうまくとれない人は社会の枠でうまく生きることが難しい。自分のエゴを抑えることが出来ずに周りに迷惑を掛けてしまうか、もしくは何も伝えることが出来ずに意志疎通が出来ない状態になる。

おじいちゃんは前者だ。おばあちゃんや私の意思に関係なく、自分の意思だけ、つまりエゴで周りをうまく操作し環境を作り上げてしまう。そうした人々を我々は“偽善者”というカテゴリに区分けしていた。人の為と考えている振りや、もしくは本人も気付かないまま、そのような環境を作り上げてしまうんだ。その後者の場合、本人は気付かないままだからタチが悪い。それが幸せになる方法だと信じて疑わないからね。おじいちゃんはどちらなのかはわからない。ただ、思考の方向性が“偽善者”であることには変わらない」

「…その通りだラブイズ…私は“偽善者”だ。すまない…すまなかった…」

「パパ…パパも思うところがあるかも知れない。だけどおじいちゃんを許してあげて。さっき言ったでしょう、“許す”って。おじいちゃん、もう気にするのは止めよう。私はパパやおじいちゃんの言う“偽善者”っていうのがよくわからないケド、ようはおばあちゃんの為に頑張ってきたんでしょう?じゃあ良いと思うよ。“やらない善よりやる偽善”って言うじゃない。私は今、ママのことが心配。そしてママに逢いたい。それは“善”とか“偽善”とかそんなんじゃない。それともパパ、私も偽善者なの?私はそんなことどうでもいい。だからおじいちゃん、パパ、みんなでママを助けよう。私、“偽善者”でもいい。だから、ママを…私…ママに逢いたい…」

「アイハ…」

「アイハ…そうだな…ありがとう。ラブイズ…今はキキョウのことだけを考えよう」

「…父さん…私にはキキョウも、アイハも大切なんだ。…ジニアスは…彼は何者なんだ…?」

「…ジニアスか。彼は我が大学の優秀な生徒であり、これから会いに行く人のお孫さんだよ。私があるファミリーに属しているのはさっき話したが、そこは“華僑”と呼ばれている。“華僑”とは中華系の流れを組む相互扶助の組織なんだ。その規模は世界中に及ぶんでいる。私はそのファミリーの中で、ファミリーの為に働いているんだ。私の研究はもちろん、地位や権力、お金もその全てはファミリーに流れ、その恩恵をファミリーから得ている。

ラブイズ…君に例えるとしたら、君の幼い頃からの生活費、生活環境、教育費、大人になってからの君への給料、研究費、マシンの構築費、また君を探したり、君の進路の際など、人の力が必要な時は即座に力を貸してくれたりする。そういう恩恵を授けてくれた。世の中にはそういう大きな力がある。

私のもう一人の親友…“ケン”はそのファミリーの総帥だ。私は親愛を込めて“師兄”と呼んでいる。…ただ…ジニアスに関しては、本当に偶然だと思うんだ…

彼が日本に行くのは君が行くしばらく前から決まっていたし、そもそもジニアスはファミリー自体を知らない可能性が高い。表向きはただの資産家だからね。だから…君が心配するようなことは無いと思うんだが…」

「…私が父さんの所業を知らなかったように、父さんがファミリーの仕業を知らない可能性がある。私はもう、私の知らないところで家族が傷付けられる隙を一つでも妥協しない。とにかく、その人の話を聞くことにしよう」

「…そうか…だかラブイズ…これだけは覚えておいてくれ。
我々の最大のスポンサーが彼だ。つまり、君が新しいマシンを作るなら、彼の協力なしには語れない。マシンを作るだけじゃない。研究に携わることや、大学に所属すること、大きくいえば、この街に住むことすら彼の影響下に置かれることになる。
ラブイズ…言うなれば彼は君のもう一人の父親とも言える存在だ。文字通り君の全ての生活は彼の恩恵によるものだ。キキョウを救いたいならそれを忘れないでくれ」

「……わかった…」

それきりパパは黙ってしまった。そしてややしばらく走ると大きな門が見えてきた。

門に辿り着くと、門番の守衛さんがいた。車の窓を開けておじいちゃんがカードを見せる。その間、もう一人の守衛さんが車のトランクを開けて、私達は身体検査をさせられた。

「…随分頑丈なセキュリティだな…」

「彼は“大老”に数えられる数少ない華僑の長だからね。念には念を入れてというやつさ。大丈夫。いつものことだ」

「おじいちゃん、ケンおじいちゃんってどんな人なの?」

「うん…そうだなぁ…ある言葉だけどね、
『木のように伸び行き生育し、森を育て山を育むは慈しみの心と知れ
金属のように清廉とした清らかさを宿し、周りと固く結合し鉱物を養うことは義侠の心と知れ
火のように燃え盛り、発熱し立ち昇りを操るは礼節の心と知れ
水のように全てと交わり拡がり、命の源を潤すは智恵の心と知れ
土のように受能し、全ての養育の源は信ずる心と知れ
己を厳しく律し、立ち震える勇気を内包するもの、それを大老と心得よ』とあるんだ。まさにそれに相応しい人と思うよ」

「ふぅん。わかりずらいケド、なんとなくスゴい人そうな印象だね。それでどんな人なの?」

「…まぁ人間の出来た人だよ。私なんかよりずっとね。そうだな…すごく厳しいかな…己にも…他人にも…一見して穏やかそうで雄大な印象を受けるけれど、鋭さだけは若い時からずっと変わらない。まぁそんなに堅くならなくていい。ありのままのアイハでいればいいよ。ただ…最初にお茶が出されるだろう…二人は私の見たままにお茶の作法をしてほしい。難しい事じゃない。おまじないみたいなものだ。ラブイズ…宜しく頼むな…」

「…わかった…ただそれはどんな意味があるんだ?」

「我々の本気を示す合図だと思ってくれ。華僑には秘密のサインが色々あるんだ…普段は使うことなんか今はないけれどね」

「…それでアイハが何か危険に晒されることがあれば…」

「無い。逆に我々の安全を示す為だ。どうか信じてほしい」

「…逆に私達を陥れるサインなのかが私にはわからない。…何の意味があるのかを一応教えほしい…」

「…そうだな…
“黒話(こくわ)”というものなんだ。
出されたお茶は蓋を斜めに被せ、小指をお茶に少し入れる。そしてテーブルに三回三滴別々に付けるんだ。天と地、そして先祖に対する礼節を表している。そこで私は話を切り出し始める。彼等は自然や宇宙を崇拝している自然哲学者達だと思えばいい。宇宙と共に生き、その一体感を得ることが人生と捉えている。その規範は道教、仏教、儒教に置き、易経より生じている。君は東洋の哲学にも明るかったねラブイズ。彼等はまさに自然と共に生きることを旨としているんだ。“エゴ”と“利他”は表裏一体であり、彼等独自の理論形態を持っていることを忘れないでいくことだ。
…今更君達に加える危害なんてない。信じてほしいというのは虫が良すぎるかも知れないがラブイズ、君の目で確かめてほしい。これからのことを含めてね…」

「…わかった…どちらにしても最短でキキョウを救う為には必要なことなんだろう?だが…今は慎重に冷静を重ねていくことにしているんだ。それはアイハ、君が教えてくれたことだ。“献身の覚悟”それを私は忘れないよ」

「“献身の覚悟”?私何かした?」

「いいんだ。また今度話すよ…着いたな…でかい屋敷だな…」

「まだ出ない方がいい。放し飼いのドーベルマンがすぐに飛んでくる。隣のガレージが空くから、そこに入れるんだ」

「おじいちゃん、“コクワ”ね。わかったよ。なんだか秘密の暗号みたいだね」

「うん…似たようなものだ…じゃあ行こうか」

ガガガガガ…とシャッターが開いて、地下へ向かう駐車場が現れた。私達はそのままそこへ車で下りて行った。

地下駐車場からエレベーターに乗り3階へ入る。

緊張しながら立派な調度品が並ぶ廊下を進むとドアの前に一人の執事が立っていた。

「ようこそいらっしゃいましたサイトウ老師。こちらへどうぞ…」

いよいよか…一体どんな人なんだろう…パパは緊張し過ぎて顔が真っ青になっているケド、目はキリッと口はギュッと結んでいた。

ガチャリ…

ドアを開けると、中はチャイニーズレストランのように真っ赤な丸テーブルがあり、壁には竜や鳥の掛軸が飾られていた。隣にはチャイナドレスのお姉さんが佇んでいる。そしてテーブルの真ん中には…

…諸葛亮孔明が居た。

私は日本も好きだけど、東洋というくくりで中国も好きだ。中でも“三國志”は“レッドクリフ”という昔の映画を見てからハマっていて、日本では“横山三国志”にハマった。

なんだか頭に紐で止める小さな黒い帽子を被り、鼻下とアゴにヒゲを蓄え、昔の仙人のような着物になんだかふわふわの羽がついた扇を持っている。

…出オチならぬ、“待ちオチ”のギャグなのか…!?

…い、いや、きっとあれは正装なんだ…
笑ってはいけない…
笑ってはいけない…

私はきっと顔が真っ赤になっていただろう。

孔明は…孔明の待ちオチはズルイ。でもパパとおじいちゃんは神妙な顔をしている…

笑ってはいけない…
笑ってはいけない…

ケンおじいちゃんと思わしき人は立ち上がり、ふわふわの扇を閉じて粛々と頭を下げた。

「ようこそおいでなさった。さぁこちらへ…」

静かで落ち着きがあり、しかしハリのある若々しいシブい声は優雅に私達を席へと促し、私はすっかり心を奪われていた。孔明スタイルの時から。

「ケン師兄…この度は急なお時間頂きまして誠にありがとうございます。こちらが先程お話したラブイズとアイハです。ラブイズ…アイハ…ご挨拶なさい」

「ご紹介預かりましたラブイズ・ハルトスです…宜しくお願い致します」

…パパ、ジャパニーズオジギスタイルだ…ビシッと背筋を真っ直ぐに頭を下げる仕草に好感が持てる。…真似しよう。

一歩前に出て、まじまじと見ると、日本の俳優の真田〇之を渋く年を取らせた感じだろうか…

!!

ヒゲ…!
ヒゲが…
両面テープで止めてあるッ!!

もうダメだ!!

「ぶわフォッ!!ヒ…ヒゲッ…!!こ…孔…明…ッ!!」

やってしまった。でも箸が転がっても笑える女子高生。もう止まらない。

「あははははは!あははははは!」

腹を抱えて笑って転げる。チラリと横目で隣を見ると、おじいちゃんとパパが顔面蒼白になっている。奥ではチャイナドレスのお姉さんが驚きを隠せない様子で口に手を当てていた。

「あはははははっ!あはははははっ!」

止まらない!止めようとしても止まらない!極度の緊張のせいか、さらに笑いが止まらなくなってしまった!

目の前には孔明スタイル。
周りには真っ青になった大人3人。
爆笑する女子高生。

なかなかのカオスだ。

その内ケンおじいちゃんはプルプルと震えだした。

ヤバい。
怒っている。しかし私は止まらない。

「ヒィー!ヒィー!」
なんなら少し過呼吸気味だ。

「孔…明…と言ったか…」

「こ…孔明!うぷぷぷぷぷ!」

ドン引き!おじいちゃんもパパも私にドン引きしているッ!ハッとしてパパが私に駆け寄った。
「…も…申し訳ありません娘が…」
「ガーハッハッハ!!」
孔明が風体に合わない豪快な笑いを吠えるようにあげた後、轟くような大きな声を張り上げた。

「バッカモン!!!!」

周りの空気がピシィと凍り付いた。

「この子を見習えッ!!」

ハァーフゥーハァーフゥー…

私?
ふぅーふぅー

笑い涙を拭きながら孔明の顔を見ると、満天の笑みでこちらに笑いかけた。
「孔明」

ブワフォゥッ!

ぷぷぷぷぷぷ…
ヒゲが…ヒゲがズルイ。

「ふふふ…ふわぁーはっはっは!ウケたか!?面白かったか!?」

ぷるぷると身体を震わせて、口を右手で押さえながら左手でOKのサインを作る。

「ふふふ…掴みはOKじゃな…」

掴みは…OK…?

「大老…お戯れが過ぎましてよ…」
チャイナドレスのお姉さんが孔明を窘《たしな》めている。

「初見で孔明に気付いたのはこの子が初めてじゃ」

アゴヒゲをさすりながら、すごくご満悦そうだ…そしてビリビリと口ヒゲを取り外した。

「わしの渾身のジョークをよくぞ堪能してくれた!礼を言う。お前達はなっとらん!座れッ!」

そしてその後しばらく、ケンおじいちゃんの笑いに対する熱心な講義が続いた。

私はケンおじいちゃんの隣に座らされ、礼節とはなんなのか?真のおもてなしとは五感に訴えるおもてなしをすることで、受けた方は素直にそれを喜ぶことが、真の礼儀であるとか何とかを熱心に聞かされた。

時折おじいちゃんが「あれはわからない」だとか「笑う状況じゃなかった」だとか言い訳する度に「お前は浅学だ」とか「笑いが世界を救うんだ」とかを言い負かされてた。

その横でパパは緊張の糸がほどけたのか口を開けて「はぁ…」とか「はい…」とか呆然と返事をしている。

「…ったく…研究者という人種は己の研究のことばかりで全く世の中の真理を追求しようとしとらん!この子のように素直に喜びを表現せい!」

…なんとなく気に入られたようだ…いい展開なのかコレ…?

「む!茶がぬるいわ!代わりを持ていッ!」

チャイナドレスのお姉さんは慣れた手付きで代わりのお茶を用意してきた。

あ!おじいちゃんがふたを斜めに掛けた!パパに目配せをすると慌て真似をしだす。私もおじいちゃんを見ながら、見よう見まねで小指をお茶に浸し、湯飲みの隣にチョンチョンチョンとお茶を垂らした。途端、孔明の目がクワッと見開く。

「…黒話か…随分古いものを持ち出してのぅ…」

「天と地と先祖においてお願い申し上げることがございます」
おじいちゃんが神妙な顔で言い始めたところでスッとパパが立ち上がった。

「不作法で申し訳ありませんケン大老。私から申し上げます。実は私の妻が研究途中の機械に入りまして身動きが取れない状態にあります。まずはそれを解決する為に、もう一機必要になります故、研究費の援助をお願い致します。
もう一つはそこにいるアイハの事です。
御存知かも知れませんが、御令孫様と娘は良いお付き合いをさせて頂いておりますが…

ケン大老…これ以上アイハに何をお望みでいらっしゃいますか…?」

パパは鋭い眼光を孔明に向けていた。

「ガッハッハッハ!青二才がわしに眼光を飛ばすかッ!…ならば聞こうラブイズ!貴様の信念はなんだッ!わしから答えを聞き出すまでの器量がお前にはあるのか!?」

「…信念…ですか…家族を…家族を守ることです…!」

「フハハハハ!ぬるいわ!貴様は自分の家族を守ることだけが信念だと言うのかッ!?今までこれだけの研究費を与え!これだけの時間を与え!それを家族を守ることだけに使いたいというのかッ!

貴様にくれてやるくらいなら発展途上の国にくれてやった方が余程そいつらの家族の為になるわ!出直せいッ!」

「…ジニアス…ジニアスについてはいかがお考えですか…彼は…何を持って私達に近付いて来たのでしょうか…あなたが…あなたが指示を出したのではないですかッ!!これ以上…私の家族を傷付けるなら…私はあなたを絶対に許さない…!」

「ラブイズ!口が過ぎるぞ!ケン師兄、申し訳ありません…」

「良い。お前は黙っていろサイトウ」

鋭い眼光を孔明に向け、パパは仁王立ちのまま威圧していた。その姿は鬼気迫り、周りの空気が突き刺さる程に感じた。

「ふふ…何故にそう思うのかラブイズ…わしが何かしているとでも…?」

孔明は片眉を上げて口元をふわふわの扇で隠した。隣で見ていると明らかに口元が歪んでいた。

「…確証は…無い。ただ…もしあるとすれば、あなたに陰から彩られた私の人生がその証拠だ!」

「宜しいッ!」
パァン!と孔明は膝を叩いた。

「ラブイズ!確かに私はジニアスを用いお前達に近付いた!ただそれは何の為か!お前に答えられるかッ!」

「…“真実の愛”を確認する為」

「!!
…何故…そう思うか!?」

「…ジニアスに聞いたからです。
彼は良い青年です。私はアイハを通じて彼を知りました。ある時彼が聞いてきたんです。『“真実の愛”とはいかなるものでしょうか?』と。
しばらく話をする内に彼は告白してきました。
“真実の愛”を学びたい。その為に日出ずる国へ修行に来た。そして、私とアイハに会ったと。アイハになら分かる。私には?
…ずっと心に引っ掛かっていた。それが彼を調べるきっかけになったのです。彼の出身校がサイトウの大学だと知った時に、サイトウの差し金だと思いました。しかし、サイトウにカマを掛けましたが本当に知らない様子でした。そしてあなたの名前が出てきた。だとしたら組織の最高位におり、ジニアスの実祖父であるあなたに聞くのが一番だと思ったのです。
…間違い…ございませんか…?」

「フフフ…ハーハッハッハ!よかろうラブイズ!お前の言う通りだ!いいだろうラブイズ!ならば聞こう!“真実の愛”とは一体何か!?貴様はなんと答える!?」

パパ…!?なんなの!?“真実の愛”?なんの話をしているの?孔明は鼻の下が荒れたのか赤くなっているクセに偉そうだ。

パパ…なんかよくわからないケド頑張って…!

「…その答えは…私の娘…アイハ、答えてくれ」

ハッ!?
私!?

「…ほぅ…」
孔明は顎ヒゲをスイスイと撫でながら私の方を見た。

「なるほどな…ならばアイハ!おまえはどう思うのか…聞かせてもらおうか!」

“真実の愛”…!?

真実の…愛…

愛…

なんだろう…

思い遣りの心…?
好きという気持ち…?

なんだ…?
なんだ?いつの間にどういうことになってるの?

………

愛…
愛…

私はそのまましばらく考え込んだ。

「…わからない…」

「フン!“わからない”など答えにならぬ!!所詮は小娘か」

「うぅん…わからないのは“どう言葉にすればいいか”なの…

“愛”って…ただ『好き』だとか『相手に対する思い遣り』だとか、そんなものじゃないと思うの…なんていうか…心の底から沸き上がるもので…イメージだけど、あったかくて…優しくて…そう…“お母さん”みたいなカンジ…でも…もっと言えば、『人類愛』っていう言葉もあって…なんていうのかな…『人間』ってみんな“生かされている”と思うんだ。“何の為に生きているのか”じゃなくて、周りのもの全てに生かされているんだと思う。おじいちゃんも、パパもそうだけど、おばあちゃんやママや私だけへの愛じゃなくて、なんというか…

あのさ、『飛行機』あるじゃん、あれさ、私初めて乗った時にスゴい感動したのね。あれさ、私作れない。
だけど、あれがあるから、たくさんの人が早く目的地に行けるワケでしょう?それもきっと、あの“飛行機”を作った人の愛だと思うんだ。

誰かが作ったものだけじゃなくて、太陽とか、空気とか、地面とか、
なんか、自分に関わるものすべてがそこに在るだけで私は生かされていて…
うーん…なんて言いたいのかわからなくなってきちゃった…うーん…」

「…ふぅむ…宜しい。おまえはまだ若い。充分な答えだ。サイトウ、おまえの研究は“正しい思考の方向性が正しい人生を歩む”だったな…」

「はい…」

「ラブイズ、貴様は娘が真実の愛だと暗に仄《ほの》めかした。今娘の話を聞いてどう思うか述べよ」

「…
…娘に…
…娘に教えられる日が来るなんて思いもしませんでした…
“人は生かされている”
そうだ…その通りだアイハ…パパは…君からたくさんのことを学ぶよ…」

「おまえ達は自身の器量の狭さを痛感しろ。“我”は“エゴ”に過ぎぬ。サイトウ、我々の目指す到達点はどこだ」

「…“天人合一《てんじんごういつ》”」

「左様、“天人合一《てんじんごういつ》”つまり宇宙と一体となり、自然に生きるということだ。自らのエゴに下ったおまえ達は真実を見誤っておる。しかし、見誤っているから故に、それに気付き、それを変えていくことが出来るのも真実だ。

ラブイズ、わしはおまえの全てを知っておる。それはサイトウとの盟約による。

サイトウはわしに言った。“真実の愛の元にマリーを幸せにし、それを持って世界を幸せにする”とな…

その言葉通りサイトウは自らの力で様々なものと関わり、世界を幸せに導くべく命を燃やし続けた。しかし、わしはそれがサイトウのエゴであると気付いておった。

だが陰陽思想の元、プラスはマイナスから生まれることを知っていた。それ故その使命はサイトウに任せ続けた。サイトウの思考の方向性はラブイズに引き継がれ、そして今アイハに拓《ひら》かれた。

アイハ…今の気持ちを忘れずにいられるか…?」

「う、うん…私は変わらないと思うよ」

「そうか…ならば命じよう!

ラブイズ!
貴様はサイトウの後を継ぎ、ファミリーの為に命を使え!

サイトウ!
おまえの全ての知識をラブイズに引き継がせよ!

アイハ!
おまえはわしの家族になれ!」

「は?」
孔明の家族?

「ジニアスと婚姻しろ!んでわしと住め!」

「ケン大老!アイハはまだ子供です!まだまだ嫁ぐには早すぎます!まだ家族で暮らしてないんです!待って、待ってください!」

「…いいよ」

「アイハ!君はまだ17歳なんだ!ちょっと!ちょっと落ち着こう!」

「…ねぇケンおじいちゃん」

「なんだ?」

「私、ジニアスと結婚したらお金出してくれるの?」

「まぁ…そういうことになろうな」

「じゃあ私もお願いがあるの。私もパパの研究に入れて」

「な!アイハ!進路は相談して決めようってあんなに話したじゃないかッ!て結婚?!するのかッ!ちょっ!ちょっ!」

「黙れラブイズ。アイハ、おまえは何故研究に携わりたいのだ」

「おじいちゃんとパパの方向性を知りたい。あと私はママから生まれたから」

「ジニアスとの婚姻は受けるのか?」

「まだわからないよ。ジニアスに聞いてみないと。ただまぁ嫌いじゃないし」

「いや!待ちなさい!そういうことはよく話し合ってだな…」

「ラブイズ…師兄が決めたことは絶対なんだ…すまない…こんなことになって…」

「ちょ!父さんまでそんな!待て待て待て待て待て待て待て待て!!」

「ほぅ…ラブイズ、貴様この男を父と認めるのか?」

「え…?いや…はい…まぁ…いや、そういうことじゃなくてですね!」

「ならばめでたいではないか!我が親友サイトウとその息子ラブイズの娘が、我が愚孫と一緒になる!我々は真の血族となるのだ!これは愉快だッ!ガッハッハッハッ!」

「いやー!だからもー!」
パパがワシャワシャと頭を掻きむしっている。

いや、私もわかるよ。だけどそう言わないと収まらない流れじゃん?私の結婚はさておき、まずはママを救わなくちゃいけないんだから。

パパは頭を抱えて苦悩している。おじいちゃんは黙って諦めてる様子。孔明はガハガハ笑ってる。

カオスだ。

そうか、ケンおじいちゃんと関わるってこういうことなんだな。うん、覚えておこう。

「…パパ?」

「…ア゛イ゛バァ…よ゛め゛に゛い゛っぢゃう゛の゛がい゛…」

号泣。いやいやいやいや。ちょっと落ち着こう。
そそそそ…とパパの近くに移動して、背中を撫でながらそっと耳打ちをする。

「パパ…演技だよ演技!」

「…えん…ぎ…?」

「そう!そうでも言わないと場が収まらないじゃん。結婚とかそういうのはとりあえず後でなんとでもなるから、今はまずママを救うことからはじめよう?」

「…そうか…演技か…そうか…なるほどな…」
ぐしっ!

鼻を一つ啜るとパパはスッと立ち上がり、孔明の方を向いた。

「わかりました!その話お受けしましょう!」

ダメー!パパ受けちゃダメー!こっちからの返事はあやふやにしないと断りずらくなるじゃーん!
パパは古くさいウィンクをして「演技だよ」と言わんばかりのドヤ顔をしている…

パパに交渉は向かない。心得とこう…

なんで気に入られたのかわからないケド、とりあえずはママの為の研究費とパパの疑問は払拭できたみたいだ。

私は…これからおじいちゃんとパパの研究を引き継ごう。家族でもう一度暮らす為に。

うん。がんばろう。

…なんやかんやでその場は宴会のようになり、パパとおじいちゃんはへべれけのように酔わされていた。
私はオレンジジュースをちびちび飲みながら、漠然とこれからのことを考えていた…

夜。飲んだくれた親父共は孔明の執事達に連れられて寝室へ運ばれて行った。私はチャイナドレスのお姉さんに連れられて部屋を出た。

「アイハちゃんすごいねぇ」

部屋を出るなりお姉さんが話し掛けてきた。

「えー?なんでですかぁ?」

「あの気難しくて破天荒な大老に初対面で爆笑するなんて!」

お姉さんは思い出したようにくくく…と手を口に当てて笑いだした。

綺麗な人だなぁ。頭は小さくて背は高くて手足が長くてまるでモデルみたい。顔は…誰かに似てるなぁ…
あ!小〇!“ラストサムライ”に出てたあの人に似てる!

「ん?私の顔ヘン?あぁ、こんな頭をしてるものね…普段からこんな格好していないんだけどね。大老の気まぐれに合わせて私達も色々準備させられるの」

少し呆れたカンジのお姉さんは頭のおだんごを指差しながらも、その表情は穏やかな印象を受けた。

「…大変だったね。アイハちゃんも疲れたでしょう?少し休んでいってね」

そういうとお姉さんはまるで高級ホテルのような一室に案内してくれた。

「…今日は…泊まるの?」

「うん。大人達があんな感じだからね。パジャマも用意しておいたから今日のところはゆっくりしていってね」

お姉さんはそう言うとドアを閉めて出ていった。
とりあえずベッドに身を投げ出し、マフマフする。

なー

超絶金持ちですなー

これはジニアスとの結婚も真剣に考えるか。

玉の輿。

あー
でも今日は色々ありすぎて疲れたナァ…

ママ…

そのまま吸い込まれるように眠りに着いた。

———————–
<ピンポーン>
<ピンポーン>

うにゃ…

<ピンポーン>
<ピンポーン>

…だれ…?

ハ!寝ちゃった!?

ベッドに付いている時計を見ると23:00を過ぎたところだった。

ガチャ…
「アイハちゃん…入るよ…」

あ…さっきのお姉さんだ。

「寝てたところごめんなさい。大老がお呼びなの…大丈夫?」

「あ…あぁ…大丈夫です。ちょっとシャワーを浴びていいですか?」

「ふふふ…大丈夫よ。
じゃあ大老にお伝えしておくわね。また後で迎えに来るから…」

「すみません宜しくお願いします」

孔明がなんの用だろ?

ふんふ〜んとゴージャスな浴室に鼻歌が溢れる。

頭洗ってー
身体洗ってー
湯船に浸かってー

う゛ー…
極楽じゃあ…

………

あ!呼ばれてるんだった!急げ急げ!

<ピンポーン>

はーい待ってねー!

<ピンポーン>

まだ裸まだ裸!

<ピポピホピポピホピポピホピポピホピポピホ!>

連打!!

「はーい!ちょっと待っ…」
ガチャッ!バン!
「遅いわ…あ!」
「大老!ちょっと!あ!」

「ぎぃやーッッッッッ!!!!!!!!!」

バタン!

見られた?見られた?花の乙女のあらわな姿見られた!?

「アイハちゃーん!ごめんねー!ちょっとお祖父様!」
ドアの向こうからお姉さんの声が聞こえた。

あの孔明めぇー!
素早く用意されたパジャマに着替え、ずんずんとドアに向かう。

「こらぁ!あ…?」
ドアを開けたら孔明正座。

真っ赤なガウンがなんとなく捨てられた犬に被せられてるカンジがする。そしてお姉さん腰に手を当て仁王立ち。

「あ…ごめんなさいねぇアイハちゃん。ほら!お祖父様も謝って!」

「すまん…」

ショボくれてる!てかお祖父様?あれー?あのお姉さんマゴなのか…?ってしたらジニアスのお姉さんじゃん!

「お姉さん!すみません!なんか!あの!」

「いえいえいいのよ〜。このエロジジイとっちめてやるから」

「…いや…だからすまんて言っておろうに…」

「礼節が大事だっていっつも偉そうに言ますよね!」

「いやぁ…」

「“いやぁ”じゃありません!くしゃみも恥じらう乙女に何やっているんですかッ!」

「あ…いや…その辺で…」

そんなナイスボディじゃありませんし。見られて減るもんじゃありませんし。

「ほらぁ…アイハもああ言っておろうに」

「“ほらぁ”じゃありません!本当にまったく…」

「まぁここじゃなんですし、この部屋でいいですか?」

「アイハ…」

「はい」

「足がしびれて立てん」

「なにアイハちゃんに甘えてるんですか!ほら!さっさと立つ!」

「…アテテ…」
「あ!」
ぐらぐらしながら立ち上がろうとする孔明に駆け寄り抱き上げてあげた。

「アイハは優しいのぅ」

「もう!アイハちゃん、あんまり優しくしなくていいからね!」

お姉さんはそう言うと、私がいた部屋のドアを開けてくれた。私は孔明、もといケンおじいちゃんの手を引きながら後に続いた。

「えッキシィ!!」

くしゃみと鼻水が出た。…髪乾かしてなかったからだな。すみませんお姉さん、私人前でくしゃみと鼻水出しちゃう乙女です…

「あらあら」と鼻水を拭いてくれた。

「ズミマゼン…」

「鼻声になっているね。こっちで髪を乾かそう?お祖父様はちょっと待っててくださいね」

そういうとお姉さんは鏡台の前に連れて行ってくれた。
孔明は一人掛けのソファにマフッと腰を下ろして「早くな」とか言ってるケド、さっきの正座姿を見たせいか威厳0だ。

コオォォォォォ…とドライヤーをお姉さんが掛けてくれる。

「いや、自分で掛けますので…」

「いいからいいから!栗色の綺麗な髪ねぇ。やっぱり十代はキューティクルが違うわよね!」

「あ…お姉さんの髪もキレイですよね。どんな手入れされているのですか?」

「私は黒髪だからね。椿油なんか使ってるよ~ツヤツヤになるの」

「へぇ~!あの、ジニアスのお姉さんなんですよね?私なにも知らなくてすみません」

「いいのよ~。私も言ってなかったし」

髪を乾かすお姉さんの手が気持ちイイ。こりゃ並の男ならイチコロだな。

「はい出来たわ。いきましょう」

「はい!ありがとうございました!」

「うふふ、どういたしまして」

孔明を見ると、ちょっとうたた寝してるっぽい。“大老”ってなんだかもっと怖い仙人ぽいイメージだったケド、こうして見るとどうしようもないお爺ちゃんだな。

「ほらお祖父様!起きてください」

「んにゃ…おお…」

ヨダレの後が白くなってる…あ、お姉さんハンカチで拭いてあげた。まるで介護です。

「アイハ!先程はすまんかった」

「いえいえこちらこそ」

「んでな、おまえ本気であいつらの研究継ぐのか?」

「え…あぁ…はいまぁ…」

「あの場の勢いとかじゃない?」

お姉さんが優しく聞いてくれる。

「うーん、なんというか、パパやおじいちゃんに任せておくとなんだか違うっていうか、なんか二人とも男じゃないですか!難しいことを考えるのは得意かも知れないケド、なんか人の心ってそうじゃないっていうか…やっぱりうまく言えないんですケド、そんな気がするんです。
…特に今回はママが掛かっているから…だから二人だけには任せられないっていうか…」

「…ふぅむ…シィエ、おまえはどう思う?」

「そうね…ねぇアイハちゃん。サイトウおじいちゃんは何の為に研究していると思う?」

「あの…さっき言ってた“てんじんごういつ”ってヤツですか…?」

「あら!よく聞いてたわね。じゃあ“天人合一《てんじんごういつ》”ってなんだと思う?」

「うーんと…宇宙や自然と…一つになる…ですか?」

「…うん。それがおじいちゃんの研究にどう繋がっているんだろう?」

…おじいちゃんの研究が…宇宙と一体になる…?
いやいや違う。そういうことじゃないよね。
えーと、確か“正しい思考の方向性が正しい人生を導く”だったか。宇宙はわかりづらいから、自然だな。うん。宇宙も自然の一部だしね。
自然に生きる為に機械を使っているって、それ自体が不自然だよね…ケド、正しい思考の方向性を得て、その人が学び、そしてより良い人生を歩むならそれはいいか。だいたいそれを言うなら世の中不自然だらけだしね。だけど便利なものが無くなると文明的な生活は出来なくなるって先生も言ってたっけ。便利なものが増えたから、公害が増えたって習ったなぁ…

あれあれ、なんだったっけ。
そうそう、研究が自然と一つになる為にはどうかだっけ…
あ…
「“真実の愛”…?」

「…“真実の愛”ね。それがどういうことなの?」

うーん…

「おじいちゃんの研究は…“正しい思考の方向性が正しい人生を導く”…
“てんじんごういつ”は自然と一つになることで…
そこには“真実の愛”が必要で…あぁ、それ自体が自然に生きることか。
つまり、人間は生きているんじゃなくて、“生かされている”っていうことで、それ自体が“真実の愛”に溢れているから、それに気付いていく為の研究っていうカンジだと思います。…うまく言えないケド…」

「…お祖父様?」

「…むぅ…だが…しかしまだこの子は若い…若すぎる…シィエ…この子にはこの子の他の人生があるかも知れない…」

何の話?私の人生?

「お祖父様…“盟約の解錠”を発動しますわ…」

「な…!?本気なのか…!?」

えーなになになになに?私何か言った?
てか“盟約の解錠”って何?遊〇王?カードゲームしてたの?てかなんか発動させちゃったの私!?

「ケン大老、総代の名に於いて命じます。
アイハちゃんを彼らのチームに加え、ファミリーに属する。血の盟約を交わしてください」

「シィエ…いや、総代…わかった…アイハ…本当にいいのか…?」

「え?なんですかコレ?ドッキリ?ドッキリでこういうのありますよね?」

「アイハちゃん、ドッキリじゃないよ。ただ説明が必要だよね。ごめんなさいこんな急に話してしまって。
あのね、まずこのファミリー…“ファミリー”っていうのはね、親戚の集まりみたいなものなんだけれど、私はここの“総代”なの」

「…総代?ケンおじいちゃんより偉いの?」

「うーん、偉いっていうか、取りまとめる“係”っていうのかな。
これはね、秘密にしておいてもらいたいんだけど、私達の仕事って“世界”が相手なんだよね。だから私達をよく思わない人も多いんだ。残念だけどね。
だから表向きはお祖父様が代表なんだけれど、本当の代表は私なの。だから私はなるべく外に出ずにここで守られているんだ。
“大老”っていうのはね、世界に12人いる華僑の議員さんみたいなものでね、華僑の全てを取り仕切る人達のことなんだ。で、中にはファミリーの総代を兼任している人も多いけれど、うちみたいにファミリーの総代が別なところもあるの。
議会で決められた内容は基本的には守らなくてはならないけれど、ファミリーの中では全て総代に決定権がある。ただ、お祖父様がこんな小娘にあれこれ言われていても組織は保てないでしょう?だから表向きはお祖父様の秘書としてそばにいるの。でも、総代としての権利を行使するときに“盟約の解錠”をする。
“盟約”とはお祖父様との仕従関係のことで、普段はお互いの係を尊重しているけれど、有事の際にはそれを解除して私の権限を行使できる決まりなんだ」

中二病くさいですね、とは言えない雰囲気だ。でも守られている…って…
「命とか狙われているんですか!?」

「うん、まぁね。それでね、今の総代は私が拝命させてもらっています。
ご挨拶が遅れましたね。
劉家ファミリー総代のシィエ・マリア・劉です。宜しくお願いします」

そう言うとお姉さんは丁寧に頭を下げた。

「あ…!アイハ・ハルトスです!こちらこそ宜しくお願い致します」

「うふふ。改めて宜しくね。そういうことでファミリーの総代としてお祖父様に命じたの。ただ、お祖父様には命じたけれど、アイハちゃんには聞きたいの。“ファミリー”というのは特殊な集まりでね。個よりも一族を重視する。
つまり、自分の命よりもファミリーの存続に重きを置くことになるの。
“盟約”とは固く誓われた約束のこと。だから究極、一族と家族を選ばなくてはならないとした時、一族を裏切るようなことがあれば“血の粛清”が行われる。…そうやって私達の一族は固く結ばれ、存続してきたの。
そしてその命は一族の為に使われるということ。

アイハちゃん。
“血の盟約”とは一族と同等の力を持つと同時に、命の全てを一族に捧げる覚悟が必要なの。もちろん受けなくても研究は存続するわ。ただ…私はアイハちゃんにお願いしたいの。
アイハちゃん、私ね、いや、私達はね、普通じゃないんだ。
命は一族の為にあるって魂に刷り込まれている。
だから、親兄弟が亡くなっても、それは『仕方ない』で済まされて、深い悲しみや痛みが薄く感じている。私のお父様も去年亡くなったわ。けれど、そんなに悲しくなかった。
正直、人の生き死にが日常茶飯事の生活で麻痺しているのかも知れない。…だから、サイトウ博士が眩しかったの。

エゴイズムだったかも知れない。
けれど、たった一人の人の笑顔を見るために、あんなに命を掛けて生きることが出来るなんてね。もちろん、サイトウ博士の得たものは全てファミリーの恩恵となり、たくさんの人にもたらされました。
スラム街が小さくなった話は知っている?お祖父様の時代はこの街のほぼ全てがスラムのようだったって。けれど、お祖父様やサイトウ博士や、たくさんの人が教育や仕事、インフラなんかを施して、ここまで良く変わったのよ。

だからアイハちゃん。
“血の盟約”とは理不尽にアイハちゃんの命を奪い、人生を決め付けさせるかも知れない。それでも、あなたが望むなら、私達のファミリーの一員になって欲しい。
それは、命の価値が変わってしまった私達の為に、あなたが思う“真実の愛”を私達に示してもらいたいの。
あなたが“真実の愛”をその生涯で得られたなら、私達の計画は飛躍的に進むだろうから…」

「…計画って?」

「“世界平和”よ」

「世界…平和…」
規模が大き過ぎてわかりません。

「…のぅアイハ…じじいはもう老い先短いて、命を掛けてファミリーの為に働くことは惜しぃない…ただおまえは若い…シィエよりもまだ若い…使命を押し付けるのは痛ましいんじゃ…シィエにも自由に生きさせたかった…ただ一族の血がそうさせんかった…シィエは特に優秀じゃて、間違いをなく一族を率いるじゃろう。
ただのぅ…アイハ…わしゃぁおまえが好きになった。血生臭いこの世界に生きるよりも、全うな人生があるはずだと思うんじゃ…
だから…総代が今ああ言っておるうちに断ってくれんか…
“血の盟約”を交わしたからには、何かの際に家族より一族を優先せねばならん。究極、ラブイズに何かあった時、おまえ見捨てらるか?」

うー…んそういうことか…

「…今決めれません…」

「…そう…そうよね。いいの。あなたがジニアスと結婚すればイヤでも一族になるんだからね。その意味も伝えておきたかったから」

「…いえ…ジニアスとのことこそ別な話です。ただ、時間をくださいませんか?今後のこと…自分の人生…ママのこと…パパのこと…少し、落ち着いて考えたいんです」

「そうよね…わかったわ。この件、“預かり”とします。ゆっくり考えてねアイハちゃん。
ただね、私もアイハちゃんが好きになったの。だからそれとは別に仲良くして欲しいのだけど、それはいいかな?」

「はい!それはもう喜んで!私、お姉ちゃんとかいなかったから嬉しいです!」

「ふふふ、ありがとう」

「“預かり”か…シィエ…おまえには敵わんな…」

「いえいえ、大老にはまだまだ及びませんわ。さぁ遅くなりましたしお祖父様、お暇しましょう」

「…うむ…ではアイハ、焦ることはない…ゆっくり自分の人生を決めるが良いぞ…」

「孔め…ケンおじいちゃん…」

「ふふふ、“孔明”でも良いぞ!わしが最も尊敬する男じゃからな!」

「あ…じゃあ孔明おじいちゃん、シィエお姉さんおやすみなさい」

「はいおやすみなさい。アイハちゃん、夜遅くにありがとうね。それじゃあまた明日」

「グッナイじゃアイハ」

「はいまたー」

フゥ。
いい人達で好きなんだケド、またおじいちゃん方とは別で話が難解ですな。

…それからは中々寝付くことが出来なかった。

色々考えた。

ママのこと。
パパのこと。
ブシおじいちゃんのこと。
おじいちゃんのこと。
おばあちゃんのこと。

ジニアスのこと。
シィエお姉さんのこと。
孔明のこと。

これからのこと。
私が何をしたいか。
“真実の愛”とは。
世界平和とは。

人生とは…

そしていつの間にか寝てしまっていた。

——————————

次の日の朝。私達はゴージャスなホテルの食事のような朝食をいただき、屋敷を後にした。パパとおじいちゃんは二日酔いが酷いらしく朝からぐったりしている。
シィエお姉さんが車を二台手配してくれて、それぞれの家に帰った。

———————–

家に着くとパパはそのままベッドに転がった。どうやら車に酔ったらしい。しばらくすると大きなイビキが聞こえて来た。
私が荷物を片付けている途中にスマフォがバッグから転がり落ちた。着信もメールもたくさん入っている。
一つはおじいちゃんから。
もう一つはジニアスから…

私は電源を切り、それをテーブルの上に放り投げ、無言で掃除を始めた。
ママの無言の叫び声が聞こえてくるようなごみの山だった。

ママ…
どんな気持ちでこの家に居たんだろう…
どんな気持ちで毎日を過ごしていたんだろうか…
止めどなく流れる涙を拭い、しゃくりあげながらただただ無言で片付けをした…

———————–
…夕方…
パパがリビングに起きてきた。

私は幼い頃の誕生日のアルバムをただ見ていた。

写真の中の一才の私は泣いていて、
ママは笑顔で、
パパも笑顔で…

拭っても拭っても、涙が溢れて止まらなかった。

パパは私の隣に座って、私の肩を抱き寄せた。
私はただ、パパの胸の中で泣いた。

「…ママのところへ行こうか」

そう言ってパパは私を研究室へ連れて行った。

———————–

「ママ…」

モニター越しに見えるママは少し頬が痩けているように見えた。
パパは忙しそうに、そして真剣に機械のチェックをし、ママの状態を確認している。

「…ねぇパパ」

「なんだい?アイハ」
パパは計器を見て頬杖を付き、口元を擦りながら振り向かずに返事をした。

「こっちを向いて」

「あぁ…ちょっと待ってね…うん…これでよし。どうしたんだい?アイハ」

「私…これからどうしたらいいカナァと思ってる…」

「うん…そうだね。一つ一つ、一緒に考えていこうか」

「ママのことは心配…だけど私、機械のことはわからないし、学校のことや、ジニアスとこれからどう付き合ったらいいのかわからないんだ…」

「…アイハは何をしたいのかな?」

「私…?私は…家族で幸せに暮らしたい。今のこの家族で暮らしたい。新しい家族のことなんて、考えることも出来ない。
…だから…ケンおじいちゃんの言っていたことは、本当は良くわからないの」

「うん、うん、アイハは家族で幸せに暮らしたいんだね。それでケンおじいちゃんの言うことは良くわからないんだね」

「…そう。それでね、私、ママのことを見ていきたいから、この機械の使い方も覚えたいんだ…ただ、私が本当にやりたいことは今は無いんだケド、このまま介護みたいな生活がしばらく続くなら、私も何か手に職をつけなくてはならないとも思うの…それが、ケンおじいちゃんの言うジニアスとの結婚で、ファミリーの一族になるのとは違う話だと思うんだ。結婚ってお金ダケじゃないと思う。若い今だからそう思うのかも知れないし、お金の苦労をしたことないからかも知れないケド、なんというか、私はそれだけで結婚したくない」

「アイハ…!あれは演技だって…!」

「いや、ジニアスとって訳じゃなくて、なんにしてもの話だよ。
…だから、私どうしていいかわからないんだ」

「そうか…そうだよね。パパもアイハの立場になったらわからなくなるなぁ、きっと…」

「パパも!?嘘だぁ、パパいっつも自分で決めちゃうじゃん」

「いや…パパはね、見切り発車が多いんだよね。やらないで後悔するよりは、やって後悔したい方なんだ。身体が先に動いちゃうっていうのかな」

「私も本当はそうなんだケドね。…今回は、悩んでいる」

「そうか、わかった。
パパが思うことなんだけどね、まず、ママの状態を適切に維持していくのに、パパとおじいちゃんの他にもう一人、身内で安心してマシンを任せることが出来る人が必要なんだ。
だからもしよかったらそれはアイハにお願いしたいのが一つ。ただ、その為には機械のことに詳しくならなくてはならないから、勉強を兼ねてそういう高校へ編入する。
いや、パパが考えていることだから、アイハが嫌だったらそうじゃなくていいんだからね。それで実はこの大学の敷地内に工学科の付属高校があるんだ。そこに編入すればいつでもすぐにママに会える。…ただ、君の進路はかなり狭まってしまうだろう。でも良かったら世間ずれしない為にも外に働きに出てもいいと思う。
…いずれにしても、ママがこのまま起きなかった場合、誰かがマシンの手入れをして見守っていかなくてはならない。
おじいちゃんは順番的に先にどうなるかはわからないから、やはり身内でマシンを操れる人がいるとパパも安心なんだ。もしパパがアイハだとしたら、何かの時にただ見ているだけじゃなくて、自分でママの面倒を見られたら後悔しないと思う。
だけど、これはパパの考えだから、アイハに押し付けたりしないよ。ゆっくり考えたらいい。…どちらにしても、最低限必要なことは覚えてもらうつもりだからね。

アイハ。
君には君の人生がある。
私は親になって、ようやく今思うんだ。子供に親のエゴは押し付けられないって。それはママのお父さんを見ていてより強く思ったんだ。ママのお父さんはパパにも決して自分の考えを押し付けなかった。ただ守っていた。いつでも自分が力になれるようにって。パパもね、そうなりたいと今は思っているんだ。

だからアイハ。
こんなパパだけれども、パパは君の力になりたいんだ。君の、これからの素晴らしい人生を応援したい。
そして、その為にはたくさん悩んでいい。悩みはたくさんある程いいんだ。
悩めることが幸せに感じた時、パパはきっと、アイハが本当の人生の幸せに気付けた時だと思うよ。

…人は一生涯悩み続ける生き物だ。だからそれがプラスの方向性を向いている限りは大丈夫だからね…」

「パパ…」
相変わらず少し難解ではあるケド、何となくパパの言っていることは理解出来た。

とりあえず私は当面、パパが“マシン”と呼ぶこの機械を理解していかなければママの面倒が見れないってことだ。

そしてその為には知識が必要で、
その上で“どう生きていくか”を考える。

うーん…
わかった。

「まずはパパの言う通りやってみる。ケド、その時々で私、また悩むかも知れない。その時はパパ、また相談に乗ってくれる?」

「もちろんだよアイハ。ありがとう。一緒にがんばろうか。もう一人で悩まなくていいよ。家族なんだ。一緒に考えていこう」

「うん。パパ…ありがとう」

「うん。じゃあ早速なんだけどこの計器はね…」
とパパはマシンについて色々教えてくれた。

全然わからなくて早くも挫けそうになったケド、ママの為に一生懸命メモを取った。

…ママ…

私、まだどう生きていけばいいか、わからない。だけど、悔いのないようにしたいとは思っているよ。

ママ…
ママがこの“マシン”に入ったこと、まだ意味はわからない。だけど、どんなママだって私は愛しているから。

だからママ。
パパと三人で一緒にがんばろう。これからパパとおじいちゃんと三人で見ていくから…

一筋の涙と一緒に、今までのたくさんの思い出が溢れ出してきた。

家族で一緒に暮らしたかった。
あの、パパとママと公園に行ったあの日のように…
パパが帰って来たら、全てが変わると信じていた。
ずっと、パパが帰って来たら幸せになれるって信じていた。

ママは…どんな気持ちだったんだろう…

たった一人で幼い私を育ててくれたのに、私はママをないがしろにしてパパの元へ行ってしまった…

ママが苦しい時に、
私は笑っていた…

ママ…

私…

心がぎゅうっと押し潰されそうになって、胸を締め付けた。止めどなく涙を流す私を、パパはそっと抱き締めてくれた。私は押し潰されそうな心を必死に耐えた。

私が…
私がしっかりしなきゃ…

部屋の中ではただ静かにママの心電図の音だけが鳴り響いていた。

「…パパ…ブシおじいちゃんにはなんて言おう?」

「ああ…連絡…しなきゃな。パパが電話するよ。アイハ電話あるかい?」

「いや…家に置いてきちゃった。ごめんなさい」

「いや、いいんだ。じゃあ帰ってからにしよう」

「うん…」

その時ガチャリとドアが開く音がして、おじいちゃんと知らない女の人がが入ってきた。

「おぉ…来てたか…中にはすんなり入れたかい?」

「父さんが言ってくれたんだろう?スムーズに入れたよ。ありがとう。テムズ…君がキキョウのオペをしたのかい?」

「ラブイズ主任…!申し訳ありません!私の…私の責任です…!」

「いや…君を責めたりはしないよ…全ては私の責任だ」

「パパ…この人は…?」

「あぁ…父さんの第2助手のテムズさんだよ…テムズ、娘のアイハだ。宜しく頼む」

「アイハです。宜しくお願いします」

「あなたがアイハちゃん…私…キキョウさんに…」

「まぁ…話は私が聞いたから、今はとりあえずキキョウの維持に力を注ごう」
そうおじいちゃんは言って作業に取り掛かった。

「父さん…ちょっといいかな?」

「うん…?」

そう言うと、パパとおじいちゃんは部屋の外に出ていった。私はなんとなく気まずい空気を感じながら、さっき聞いた計器の内容とメモを見比べたりしていた。

「あの…」

先に話し掛けてきたのはテムズさんの方だった。

「はい?」

「…私を…恨んでいないですか…?」

「えッ!?いや…私は何も知らないですし…」

「あ…!いや…!ごめんなさい!余計なことを言って…」

「いえいえ、パパもああ言ってますし、テムズさんもママに頼まれてのことでしょう?…私はよくわからないですケド、仕方ないんだと思いますよ?」

「アイハちゃん…」

そう言うとテムズさんは両手を口に当てて、目にはみるみる涙が溜まり、溢れ出した。

「ぅ…ぅ…ごめんなさい…ごめんなさい…」

「え…?いや…大丈夫ですよ…」

泣きたいのはこっちなんだケドな…なんなんだろうなこの人…

「ぅ…キキョウ…さんが…アイハ…ちゃんの…こと…たく…さん…話してた…から…ぅぅ…」

「ママが…?」

「はい…」

…下を向いてぼろぼろ涙を流すこの人はなんで泣いているんだろう?
謝るくらいなら断ればいいのに……苦手な人。

ママから私の何を聞いたのだろう?
私はいたたまれなくなって、その場を離れた。

ドアを開けると、おじいちゃんとパパが難しい顔をして立ち話をしていた。何かしら宜しくない出来事なのだろうか。
私は「トイレ」と素っ気なく二人に伝え、研究室から外に出た。

8月の夕暮れ空は赤く高く、空気はムワッと蒸していた。研究室の乾燥した空気から急に外に出ると、目に見えない空気の膜に捕らわれているカンジがして、私を余計に苛立たせた。

私、あの人、キライだ。
家族でも無いくせに、ズカズカ人の心に踏み込んできて、私のことが可哀想だと見下して泣いている。
あの人にママの何がわかる!
あの人に私の何がわかる!

そこに目についた小石を思いっきり蹴飛ばすと少しスッキリするかと思ったら、思いのほか硬く、足の指がジンジンと痛くなって、余計にイライラした。

私は誰にも会いたくなくなって、痛む足指を庇いながら歩いて帰ることにした。

夕暮れの中、とぼとぼと歩いているとお腹がぐぅとなった。その時に始めて朝から何も食べてないことに気付いた。それがなんだかわからないケド、すごい悔しくなって、なんでこんな時にお腹が減るんだろう。なんでこんな時でもお腹が減るんだろう。って泣きながら歩いた。

泣きながら、ずっと一人で歩いて帰った。とぼとぼ歩いていると、道すがら小さい頃にいつも行った公園があった。
あぁ、ここで良く縄跳びしてたナァ…初めてママに×飛びを見せてもらったのもここだったっけ…

それからしばらく公園で佇んでいた。辺りはすっかり暗くなり、街灯の下で私はただ座っていた。

「ヘイヘーイ!お嬢ちゃんお名前なんて言うのー?」

…ナンパだ。しかも柄の悪いカンジの二人だ…メンドクサイ。無視発動。

「あるぇー?無視くれちゃってんの?」
「ねぇねぇ、お名前なんて言うのカナァ?」

近い!腰を屈めて顔を近付けてくる!恐い…!

「いや…もう帰るんで…」
と立ち上がると、
「いや、ちょっと待ってよ」
と腕を掴まれた。

「あの…ちょっと…止めてください…」

振り解《ほど》こうとしても離してくれない。

「いや、なま…」
「キィヤァ――――ッ!!」

その時
「…ィハちゃーんッ!!」
と向こうから誰かが走ってきた!
テムズ…さん…?

「…ァ…ハちゃーん!避《よ》けてーッ!」
テムズさんはそう叫んでものすごい勢いで走ってくる!

「あ!いや!」と男が言った途端、

ドガンッ!

と凄い衝撃で腕が引き離され、私の腕を掴んだ男が吹っ飛んだ。

多分、飛び蹴り。
私は呆然としていると、もう一人の男がナイフを出した!

「イィヤァ――――ッ!」

その場に屈んでギュッと目をつぶると、ナイフを出した男が「近付くんじゃねぇ…」とか言っている。

テムズさんと思われる足音が、ザッ、ザッ、と機械のように近付いてくる。

「脅しじゃねぇぞ…正当防衛だ…」

ナイフの男は自分にそう言い聞かせるように言った。テムズさんは黙って近付いてくる。

ザッ、ザッ、ザッ、

「舐めんなコラァッ!」
その瞬間、顔を上げると、左手でナイフの刃を素手で払い、男が体勢を崩したところの肩に握りこぶしを打ち込むテムズさんがいた。
「ウガァッ!!」
「肩甲骨を強打しました。しばらく痺れて立てないはずです。警察へ連行します」

男達は二人とも「うぅ…」と唸り声を出してうずくまっている。

「…博士、アイハちゃん、確保しました」

手を電話の形にして、話してる?

「テ…テムズさん…」

だめ、足が震えて立てない。
テムズさんはこっちを振り向くと、「アイハちゃあぁんッ!」と泣き出しながら駆け寄ってきた。

「デム゛ズざぁん!」
私も安心して泣き出した。

二人とも抱き締めながら泣き続けていると、遠くから「アイハーッ!」とパパの声が聞こえてきた。

「ババあ゛ーっ!!」

パパは私を見付けるなり猛ダッシュで近付いてきて、激突しながら抱き締めてきた。

「アイハァ!アイハァ!無事で、無事で良かったぁ!アイハァ!バカァ!アイハァ!」

「ババあ゛ごめ゛んな゛ざい゛…」

後ろからおじいちゃんがふぅふぅ言いながら走ってくる。

「ご苦労テムズ…あ!この人達やっちゃったのか!?」

「…あぁ!博士…!アイハちゃんが暴力を振るわれていたから…!ごめんなさい!ごめんなさい!」

「…いや、この人達もアイハ探してくれてたんだよ…私の知人だ…」

「あぁ…博士…!ごめんなさい…!私…何も知らずに…!」

「あ…いや…まぁ、誤解もあったかも知れないし、手加減はしたんだろう?とりあえずアイハは見つかったところだし、この人達を手当てに連れていくよ…あ…おまえも手の皮が剥けているじゃないか。
じゃあ一緒に手当てしよう」

博士はそう言うと、ガラの悪い男の人達に「大丈夫かい?」とか「ごめんな…」とか言いながら立たせてあげていた。

「うぅ…サイトウさん…あの女…何なんですか…?」

「あぁ、私の助手兼ボディガードなんだ…痛くないかい…?」

「いきなり飛び蹴りッスよ!うぅ…」

「でもおまえ達もアイハになんかしたんだろう?テムズはいきなり暴力は奮わないからね」

「いや、名前聞いただけッスよ!おい!ジロー!なぁッ!」

「肩…肩が痛ぇ…」小太りのジローと呼ばれた男の人が肩を押さえてちょっと泣いていた。

「そこに転がってるナイフ、おまえのだろう?…全く…どうせおまえのことだから、いつも通りナイフで脅かしたんだろう…きちんと心を鍛えていれば、こんなものに頼らんでも良いといつも言っているだろうが…さぁ手当てしてやるから行こう…でも、おまえ達も済まんかったな…」

「サイトウさん…すみません…」

どうやらおじいちゃんの知り合いのようだ。こんなガラの悪い人達が知り合いなんて、ちょっとびっくりした。

「…タロー…おまえアイハに何かしたのか…」

パパ!マジギレしてる…!

「いや…ラブイズさん!ちょっと名前聞いただけですって!マジで!なぁッ!」

「…ジロー…そのナイフなんだ…?」

「いや!あの!ラブイズさんすみません!」

…パパに謝ってる…パパ昔悪かったのかなぁ…あ!テムズさん手の皮ベロンてなってる!!

「テムズさんッ!手ェ!」

「アイハちゃん…ごめんね…ごめんね…」

「あぁ、アイハ、テムズさんは義手だから大丈夫だよ。テムズ、アイハをありがとう」

「…パパ?義手って…?」

「…まぁ家で話すよ。とりあえずは家に帰ろう」

そうパパが言うとその場は収まり、おじいちゃんはテムズさんとガラの悪い男達を連れて研究室に帰っていった。

「…パパ…ごめんなさい…」

「ううん…いいんだよアイハ…パパこそごめんよ…」

———————–
家までの帰り道、パパに聞いた。

「…テムズさん義手って…」

「あぁ、彼女は両手両足欠損で生まれたんだ。おじいちゃんのナノマシンの開発で、普通の手足のように使えるようになったんだけどね。

今、うちの病院の手術のほとんどは彼女が担当しているんだよ。機械の手は精密でブレが起こらないからね。彼女のお陰でうちの大学は手術の人的ミスが飛躍的に無くなったんだ。…ただ…彼女も不幸な生い立ちでね…情緒不安定に見えるのは、ああやって悲しみで自分を支えているんだ…
誤解しないでもらいたいのが、決して悪意がある訳ではないんだよ。
そう、しばらくは彼女がアイハの先生だからね。よく言うことを聞くんだよ」

「え!?」
なになに!?両手両足欠損!?先生!?…生まれた時から…?


…そうかぁ…テムズさんも苦労したんだ…

「ほら…家に着いたよ。今日はゆっくり休もう」

家に着いてから、簡単にデリバリーのピザを取って、早々とベッドに潜り込んだ。

…私の部屋だけは綺麗なままで、変わっていない…

ママ…
久しぶりの自分のベッドは身体にしっくり馴染むのか、早々と私は深い眠りについた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

う…うぅ…ん…
朝か…

トントントン…と包丁の小気味良い音と、美味しそうなお味噌汁の匂いで目が覚めた。

あれぇ…?ママァ…?
…てパパか…

ブシおじいちゃんの家でたまにパパがお料理することがあった。

ガチャ、トコトコトコ…

「パパおはよう…」

「おはようアイハ!デリバリーばかりじゃ栄養が偏るから、今日はパパが作ったよ」

ぷぅんと香るお味噌汁は匂いダケならママに近い。どれどれ…と味見をすると…しょっぱい…

「パパ、28点」

ノォゥ!とジム○ャリーばりにガッカリするパパが面白い。なんとなく面白くなってカニ歩きをしてリビングへ横切る。

テレビを付けてもくだらないニュースでいっぱいだ。ぽやぽやしているとパパが朝ごはんを用意してくれた。味噌汁とおにぎりというシンプルさが素敵です。

もしゃもしゃ食べる。うむ、しょっぱい。仕方ない、夜は私が作るか。

もっちゃもっちゃおにぎりを食べていると、パパが「昨日ママのお父さんに電話したから」と言ってきた。なんだかパスポートが一週間くらい掛かるらしい。
そか来るのか…

「だからおじいちゃんが来たらアイハが迎えに行ってくれるかな?」

「うん、わかった」

「ありがとう。ご飯を食べたらパパはママのところに行くけど、アイハはどうする?」

う〜ん…

「…今日は家の片付けをするよ。夕方に行くから」

「そうか、わかったよ。じゃあパパは先に行くね」

「うん、気を付けてね」

「わかったよ。ありがとう」

それからパパは準備をしてママのいる研究室へ出掛けて行った。私はパパの汚した台所から片付けを始めた。

———————–

あらかたの片付けは昨日終わっていたので、今日は細かい掃除をした。途中、スマフォが何回か気になったケド、気にしないように目を背けた。

買い出しに出掛け、色々な食材を手に入れて帰宅。グラタンの下ごしらえを終えた頃にはもう夕方だった。

ママのいる研究室へ向かう途中、パパに頼まれたボールペンやらノートやらを買っていった。

———————–

研究室に着いてまずママの顔をモニターで見る。
いつも同じ顔だ…生きているのかそうでないのかわからない顔…

パパに備品を渡し、また泣き続けるテムズさんに計器の見方を教えてもらいながら、私はなんとなく今日を過ごした。

———————-

夜、家に帰りパパにグラタンを作ってあげる。
二人とも静かにそれを食べる。食べ終わると後片付けをし、お風呂に入り、ベッドへ潜った。

ママ…
ママが居ないだけでなんだか日常がパサパサした空気に感じる…

私の毎日の彩りは、ひょっとしたらママが与えてくれたのかも知れない。
電源を切って二日目のスマフォがリビングのテーブルに置いたままなのを思い出した。

その日、私はなかなか寝付くことが出来なかった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

そんな無味乾燥な生活から一週間、ブシおじいちゃんが来ることになった。

空港まで迎えに行くのに一週間振りにスマフォに電源を入れると、ジニアスからの着信やメールで埋め尽くされていた。中を見ることもなく無造作にスマフォをカバンにしまい、空港に向かった。

———————–

ブシおじいちゃんが着くのは15:00過ぎとパパから聞いていたがだいぶ早く着いてしまった。

空港内ではたくさんの人々がそれぞれのペースで行き交っている。人はたくさんいて、自分以外のみんながキラキラ輝いているように見えた。

胸の奥で沸々と怒りにも似たどす黒いものが、マグマの沼のようにたゆたっている…なんとなく足がふわふわして、身体に現実味を感じない日々が続いていた。

ドン!と後ろからぶつかり謝りもせずに歩きスマフォをしていくビジネスマンにイラ立ちを覚える。

みんな忙しそうに、みんな幸せそうに…私だけが取り残されたような、そんな感覚に囚われていた。

しばらく学校にも行ってない。午前中に家事をして、午後からママのところに行く生活になっていた。毎日テムズさんと接する中で、テムズさんの気持ちがわからなくもないけれども、いつもいつも謝られていると段々と心が疲れてきていた。
変わらない、少し痩けたママの顔をモニターで見ていると言い様のない寂しさが募った。

…私は…私は何がしたいんだろう…

『間もなくー東京ー成田空港からの便がー到着致しますー』

あ…ブシおじいちゃん来るな…それからしばらくするとブシおじいちゃんと…
ジニアスッ!?
…めっちゃ手ェ振ってる…

いつも通り無骨にのっしのっし歩くブシおじいちゃんの後ろから、歩幅が合わないのか少し突っ掛かりながらジニアスがついて歩いてきた。…ハコフグハットを被って。

「ブシおじいちゃん久しぶり」

「おぅ…」

「…ジニアスは…何しについて来たの?」

「Ohーアイハ…何回連絡しても返信も来ないからさ…ブシおじいちゃんに頼んで僕も連れてきてもらったんだ!」

「“連れてきてもらったんだ!”じゃないよ。まずその帽子をとって」

「Oh…」

「“Oh”じゃない」

「行くぞ…」

「あ…ブシおじいちゃんごめんね。すぐ研究室に行く?」

「…おぅ…」

「僕もついて行っていいかな…?」

「どうぞご勝手に」

「Oh…つれないなアイハ…」

「“Oh”じゃない。ブシおじいちゃんこっちよ」

そうやってタクシーで研究室に向かった。

研究室に向かう途中、ブシおじいちゃんは黙ったままだった。
私も黙っていた。
時折、ジニアスが話し掛けてきたケド、つれない返事に空気を察したのかすぐに黙り出した。

研究室に着くと、ブシおじいちゃんは博士のおじいちゃんとテムズさんに軽く挨拶を交わすと「あいつはどこだ?」とパパに聞いた。パパは黙ってママのモニターの前にブシおじいちゃんを連れていった。

ブシおじいちゃんは仁王立ちのまま「バカ野郎…」と一言呟いたきり、押し黙ってしまった。
重苦しい空気が研究室を取り巻く…

ブシおじいちゃんは「おい」とパパを呼ぶと、二人で研究室を出ていった。

「アイハ…何て言ったら言いか…」

ジニアスがその場から声を掛けてきた。

「…なにも言わなくていい…」

「…少し話さないか…?」

「…今は何も話したくない」

「そうか…そうだよね…わかった。僕は一旦家に帰るよ。何かあったらいつでも連絡をしてほしい」

「…“何か”無い」

「…うん、わかったよ…またね…」

そう言ってジニアスは帰っていった。そして、私もその後、ジニアスが居なくなったのを見計らってから研究室を出て、帰宅した。

———————–

家に帰るとブシおじいちゃんの為に日本食を作り、二人を待った。

刻々と時間だけが過ぎていく…

ピロピロピロ
ピロピロピロ

私のスマフォの着信が鳴り、画面を見るとジニアスからだった。しばらく画面を見続けているとやがて着信が切れた。それからややしばらくしてジニアスからのメールが入った。

私は、ただぼんやりとメールを開いた。

『from ジニアス』
『アイハ、君のそばに居たい。』

ただ、それだけの文章だった。ふと、なんとなく今までのメールを開いてみた。

『from ジニアス』
『ブシおじいちゃんと飛行機に乗るよ。アイハ、これから行くから待っていてね。』

『from ジニアス』
『今日遂にブシおじいちゃんにパスポートが届いたって連絡があったよ。早速明日の飛行機を取った。待っててアイハ。すぐに会いに行くよ。』

『from ジニアス』
『今日は何をしていたんだい?今日もブシおじいちゃんのところにはパスポートが届かなかったよ。なるべく早くに行くからね。アイハ、元気かい?』

『from ジニアス』
『まだブシおじいちゃんのパスポートが届かない。アイハ、大丈夫かい?ごはん食べている?またアイハのグラタン食べたいな』

『from ジニアス』
『君のことが心配だ。それとは別に君の声が聞きたい』

『from ジニアス』
『アイハ、今はやっぱり君以外のことは考えられないんだ。昨日はちょっとかっこいいこと書いたけど、本音では君に会いたいよ。』

『from ジニアス』
『アイハ、留学を止める手続きをしたんだ。でも君だけの為じゃない。自分のこれからの人生を見つめ直すいい機会だった。
アイハ、僕もそっちに帰るよ。
時間が出来たら連絡をください。』

『from ジニアス』
『アイハ、一日中君の事を考えていた。僕に何が出来るか。
僕もブシおじいちゃんと一緒に帰ります。』

『from ジニアス』
『アイハ、元気かい?僕に出来ることはあるかな?』

『from ジニアス』
『アイハ、今日ブシおじいちゃんに会いに行ったら、そっちに行きたいって相談を受けたんだ。ブシおじいちゃんのことは任せてほしい。パスポートや手続きの事は僕がやるから。アイハ、君は元気かい?』

『from ジニアス』
『今日、姉さんから電話が来た。アイハ、僕はなんて言っていいかわからない。ただ、君のそばに居たい。』

『from ジニアス』
『今日、ブシおじいちゃんの家に行ったんだ。そしたら急に帰ったと聞いたよ。忙しかったところに連絡ばかりしてゴメン。落ち着いたら連絡がほしい。』

『from ジニアス』
『アイハ、君から連絡が無くなって二日経つよ。僕が悪かったなら謝る。ただ、理由を聞かせてほしい。連絡待っています。』

『from ジニアス』
『アイハ、僕は君に何かしたんだろうか?君に会いたい。君の声が聞きたい。困っているなら力になりたい。連絡待っています。』

『from ジニアス』
『どうしたの?忙しいのかな?連絡待っています。』

『from ジニアス』
『何かあった?』

『from ジニアス』
『今度の休みはどこか行かないかい?サトランドが今熱いらしいよ!』

…ジニアス…
心の奥底に潜んでいたジニアスのことがじんわりと思い出されていく…そして私はジニアスに連絡をした。

『会いたい』

たった一文のメールだった。すぐにジニアスから返事が来た。

『すぐに行くよ』

私はブシおじいちゃんに用意したご飯をすぐに食べられる状態にセットして、外へ飛び出した。

近くの河原で待ち合わせをすると、ジニアスはもうそこで待っていた。

「早いね」

「バイクで来たから…」

「バイク…乗ってるんだ?」

「あぁ…街中の移動は便利なんだ」

「今度後ろに乗せてよ」

「そう言うと思って」

そう言ってジニアスはヘルメットを差し出した。

「ジニアスのは?」

「バイクに置いてある。おいでよ」

そう言ってジニアスは私の手を取った。私は連れられるままバイクへ向かいヘルメットを被ると、あごのベルトをジニアスが付けてくれた。そしてバイクに跨がったジニアスの後ろに乗って抱き付いた。
ウォンッ!とバイクが鳴る。

「どこに行きたい!?」

「どこか、遠く」

「わかった」

ジニアスと私を乗せて、猛スピードでバイクは走り出した。周りのいつもの景色がビュンビュンと溶けていく。

…あったかい背中。なんだかパパの背中に似てる…

———————-

しばらくバイクを走らせていくと、大きな河口で出た。
<ブルルルル…ストンフシュゥ…>

「ここは?」

「さっきの河の河口だよ」
ヘルメットを脱ぎながら、ジニアスがそう言った。私もヘルメットを脱ごうとしたら、あごのベルトが引っ掛かって取れない。うんうん唸っているとジニアスが優しく外してくれた。

「ぷはぁ!息が詰まった!」

「慣れないとそうなるよね」

「でも気持ち良かった!」

「やっと笑った」

「え?」

「ずっと…曇った顔、してたからさ」

「あ…ゴメン…」

「いや、いいんだよ。こちらこそゴメンよ」

「いや…ジニアスは悪くないよ……私、どうしたらいいかわかんなくなっいて…それで…」
「…僕さ、こっちに帰って来ることに決めたんだ」

ジニアスが私の言葉を遮るように話し出した。

「僕の家、行ったんだろう?うちはさ、あんなんだから、一族の為に働けって小さい頃から言われててさ、それが嫌で今のうちだと思って留学したんだ。けど、頭の中ではなんとなくわかってた。
うちは普通じゃないから、いつかは僕も一族の為に働かなきゃならないって。
だけどさ、姉さんの話を聞いているうちに思ったんだ。自分のやりたいことをファミリーの仕事にしようって。
僕はねアイハ、君を始めとする僕に関わる全ての人を幸せにしたいんだ。最初は日本に行く時に、サカナクンさんに弟子入りして、ずっと日本で暮らそうと思ってた。だけど、それはそれで素晴らしいことだけど、僕の使命じゃないと思ったんだ。

うちの教えでね、“使命”というのは、“どう命を使うか”なんだって。そして、“宿命”というのが“生まれる前から決まっていた、どうすることも出来ない巡り合わせ”のことなんだって。

僕は“劉一族”という宿命を帯びて産まれてきた。
だから、その宿命を受け入れた上でどう使命を全うするかを考えた。

アイハ、僕は博士やラブイズさんの研究を引き継ぐことにするよ。君の為じゃないと言えば嘘になるけど、そればかりじゃない。
僕はね、自分が金持ちのボンボンだと思う。今までずっと自分の好きなことだけをして生きてきた。だからこれからは人を幸せにして生きていきたい。その為にはまず、一番身近な人達から幸せにしたいんだ。
だからアイハ、君もそうだけど、ラブイズさんや博士、母さんや姉さん、グランパも幸せになってもらいたいんだよ。そして、その為には僕自身が幸せでいなければならない。だから僕が皆の幸せの為に、僕が一番幸せで、幸せの循環を促して生きていきたいんだ。

アイハ。
僕は世間知らずだ。だから君達の辛さは同じようにはわからない。

だけどアイハ。
僕は僕なりの“幸せに思う方法”があって、それは博士やラブイズさんの考える“幸せな思考の方向性が人生を決める”という、ファミリーの一翼を担う仕事の役に立てると思ったんだ。

だからアイハ、僕は僕の意志でここにいることに決めた。

…アイハ……君はどうしたいんだい?」

「…私…?
私は…
私は家族で一緒に暮らしたい…」

「じゃあ、そうしよう。君は君の家族と一緒に暮らせるように生きればいい。だけど、一人でやらなくていい。たくさんの人が君の周りにいるんだ。
アイハ、一緒にやろう。みんなでやれば、きっとうまくいくよ」

そう言って、ジニアスはポケットから箱を取り出した。

「これ…」

「…なぁに?」

「開けてごらん」

中を開けると、そこには四つ葉の可愛いネックレスがあった。

「これ…僕が働いたお金で買ったんだ。親から貰ったお金じゃない。
…グランパから結婚の話をされたんだろう?ごめんよ、あんなおじいちゃんで…僕もね、結婚なんてまだ全然考えていなかったけど…それはアイハと出来たら嬉しいけど…僕達はまだ若い。ただ、そうじゃなくて…なんていうか…それとは別に、僕はアイハを大切にしたいんだ。
だからこのネックレスは、婚約とかそういうのじゃなくて、僕の決意の表れなんだ。
『君を大切にする』っていうね。
だからアイハ。君にそれを受け取って欲しい。…だけどね、それは僕のわがままだってことはわかっているつもりだよアイハ。でも…それでも僕の決意を伝えたかったんだ」

「ジニアス…」

「“例えばこの命尽きようともッ!”
“例えば我が身が朽ちようともッ!”
“劉家の血の盟約に従い、此《こ》れを成す事示さんッ!”」

そうジニアスは叫ぶと自分の親指を噛み千切ってそのネックレスに押し付けた。

「“劉家の血の盟約”…
大人達は青臭い戯言だと笑うかも知れない。だけど僕は誓う。例えば君が他の誰かを好きになっても、僕は君を守る」

みるみるうちに、ネックレスの台紙が血で滲んでいく。私は言葉も無く、ただ呆然とジニアスを見詰めていた。

「…ごめん。こんなのドン引きだよね。
ただ、これが今の僕の本気を君に示す出来る限りの“覚悟”なんだ」

そう言ってジニアスは血塗れた手をそのままグローブにはめて、「じゃあ帰ろう」と言った。

私は、貰ったばかりの血に滲んだネックレスにジニアスからの本気を感じながらも、少しだけ怖かった。そしてこれがシィエお姉さんの言う『普通の家と違う』ということなのかと、なんだか妙に府に落ちたような、不思議な気持ちになっていた。

夕暮れの中を颯爽とバイクで走る感覚は、なんだか少しだけ気持ちがスッキリする。

ジニアスにバイクで家まで送ってもらうと、パパがごはん粒を口の周りに付けながら外へ飛び出してきて、口からごはんを撒き散らしながら火を吹くほど私とジニアスを怒った。どうやらバイクは危ないからダメらしい。
だけど帰り際、パパがジニアスに「ありがとう」と小さく言っていたのを私は聞き逃さなかった。

そして私とパパはジニアスを一緒に見送って、家の中へ入った。家に入るとブシおじいちゃんがもしゃもしゃご飯を食べていた。

「ブシおじいちゃん、ただいま。美味しい?」

「おぅ」

「アイハ、お義父さん明日帰るから送ってあげてくれるかい?」

「え!?もう帰っちゃうの!?」

ブシおじいちゃんはズビビ…とお味噌汁を飲んでいる。

「少し…ゆっくりしていけばいいのに…」

「仕事があるのさ、アイハ、頼むね」

「うん…わかったよ」

ブシおじいちゃんはご飯を食べ終わるとソファに横になってグーグーと寝てしまった。
ご飯の後片付けをパパとする。

「アイハ」

「なぁにパパ」

「その…ジニアスとは結婚するのかい…?」

「まだ考えられないよ」

「“まだ”?」

「いやぁ、“全然”考えられません」

「うむ…うむ…そうだよな…」

「ねぇパパ…?私、どうしたらいいと思う?」

「ん…何をだい?」

「これからのコト…ジニアス、パパの研究室に入るって」

「ジニアスが…」

「なんか…私なんかあそこに行っても何も役にたたないしさ。それだったらこうやって、家でパパのお世話してた方がみんなの為にはいいと思って…」

「そうか…アイハが決めたことなら、パパは特に何も言わないよ」

「ジニアスと結婚」

「ぐ…それは言う…」

「ウソじゃんっ!」

「いや…それはまた違う話だろう?」

「まぁまぁ一緒だよ」

「まぁまぁ一緒かい?」

「うん」

「そ…そうか?」

「うん」

「そうか…」

「うん」

「アイハ…」

「うん?」

「お義父さんな…泣いていたよ…“俺が悪かった”って…“なんとかしてくれ”って頼まれたんだ…」

「ブシおじいちゃんが…」

「うん…どちらにしてもパパはママに付きっきりになる。これから研究室に泊まることも出てくると思う。アイハはいつでも研究室に入れるようにしておくから」

「うん…わかった」

そうやって二人で洗い物を終わらせた。パパは家事がへたくそだけど、何かと最近一緒に居てくれる…ジニアスもそばに居てくれる。ブシおじいちゃんも来てくれた。ママもそばに居る。

…“そばに居る”ということ。

何かあっても、
何もなくても、

そういうことが大事なのかも知れない―
夜、ベッドの上でジニアスにもらったネックレスを出してみた。

ジニアスの決意が入ったネックレス。ジニアスは何をどう思ったんだろう…
SNSを覗くとジニアスからメッセージが届いていた。

『アイハ、今日は会ってくれてありがとう』

すぐさまメッセージを返す。

『こちらこそありがとう。手、大丈夫?』

一分も待たずに返信が来た。

『大丈夫だよ、ありがとう。今日はびっくりさせてゴメンよ。』

『いいの、ちょっとびっくりしたケド嬉しかったよ。』

『そうか、喜んでくれたら嬉しいよ。ねぇアイハ。』

『なぁに?』

『大好きだよ』

胸にじんわりと温かさが広がる…

『ジニアス、私も大好きだよ。もう寝るね。おやすみなさい。』

『おやすみアイハ。大好きだよ。アイハにとっていい夢が見れますように』

『ジニアスもいい夢が見れますように』

『じゃあおやすみ!』

『おやすみなさい』

ジニアス…ジニアスは優しい。

私はパパが言うように、ジニアスは私達に近付く為に私と付き合っているとは思えない。

好き。私はジニアスが好きだ。

ジニアスは自分の人生を決めた。

私は…

乾いたジニアスの血がこびりついたネックレスを見つめながら、私はただぼんやりと考えていた。

――――――――――――――――――――――――――――――――

次の日、ブシおじいちゃんとなぜかジニアスもやって来て空港までお見送りをした。

ずっと押し黙ったままだったブシおじいちゃんは、飛行機に乗る前にジニアスに「世話になった」と軽く礼をし、私には「あいつを頼む」と一言言った。

「うん、また電話するね」

ブシおじいちゃんは寂しそうに、またヘンテコな笑顔を見せながら「おぅ」と言って帰って行った。ジニアスはひたすら恐縮してた。

帰り道、ジニアスと手を繋いで歩いた。ジニアスの左手の親指には絆創膏が巻かれていた。そして研究室に二人で寄った。

ママの顔を見る。
いつもと変わらない少し痩けた顔。

その間、ジニアスはパパとおじいちゃんとテムズさんに挨拶をしていた。おじいちゃんとテムズさんは温かく受け入れていたが、パパだけは「学生気分なら除籍するからな」と威厳を出していた。

パパ、寝癖満開でそれは説得力に欠けるよ…

ジニアスはそのままテムズさんの助手について手伝いを始めた。私は機械の取り扱いの復習を始めると、おじいちゃんがどこかに行くようだった。

「おじいちゃん、どこに行くの?私行こうか?」

「あぁ…ありがとうアイハ。ちょっとマリーの様子を見にね」

「あ!おばあちゃん!」

しばらくママに付きっきりですっかり忘れていた。前は月に一度はおばあちゃんに会いに行っていたのに…でも…それでも月に一回だけだった…家族なのに…おばあちゃんも家族なのに…

「私も行っていい?」

「もちろんだともアイハ。ラブイズ、行ってくるね」

「あぁ、アイハ、母さんにも宜しく伝えといてくれ」

「あ…うん。わかったよ」

行きの途中、おじいちゃんが話し掛けてきた。

「…ラブイズもね、最近一緒に行くんだ」

「パパも?」

「そう、前は見向きもしなかったのにね。日本に行ってから…いや、マシンに入ってから変わったのかな?」

パパはおばあちゃんを毛嫌いしていたのは知っていた。何かとママと私をおばあちゃんから遠ざけていた。パパが“マシン”に入ってからはパパの様子を見てから、月に一回おばあちゃんに会いに行くのが習慣になっていた。おばあちゃんはいつも同じ方向をぼんやりと見ていた。私はひとしきり最近あった出来事を話してから帰るという感じだった。小さな頃はおばあちゃんが不思議だった。おばあちゃんになるとああなるのかと思っていた。
でも違った。
おばあちゃんにはおばあちゃんの人生があって、精一杯生きてあそこにたどり着いたんだ…

おばあちゃん…

施設へ着くと、おばあちゃんはいつもの席でいつも通り外を眺めていた。

「やぁマリー。ご機嫌はどうかな?今日はアイハも来てくれたよ。さぁアイハ、久しぶりだね」

「…おばあちゃん。元気だった?ゴメンね、しばらく振りで…」

じっと外を見詰めるおばあちゃんの後ろから、おじいちゃんが車椅子を掴むと言った。

「さぁマリー、今日は天気がいいから散歩してこようか」

そうして3人でお散歩をした。心なしかおじいちゃんはいつもより嬉しそうだった。理由を聞くと「今日はマリーも嬉しそうなんだ」と言った。

私にはおばあちゃんはいつもと変わらないように見えたケド、きっといつも一緒に居たおじいちゃんはわかるんだなぁ。

60年以上、一緒に居たんだ…他の男の人との子供が出来た時、おじいちゃんはどう思っていたんだろう。昨日ジニアスが言った。『例えば君が他の誰かを好きになっても、僕は君を守る』私はそんな愛を彼に対して持てるだろうか?

ジニアスが他の誰かと…

ブンブンと頭を振り払い考えを無くす。
私には考えられない。

それほどの“愛”

おじいちゃんはおばあちゃんにそれほどの“愛”があったんだろうと思う。それが生き甲斐になるほどに。例えそれが歪んだ愛に変わったとしても…おじいちゃんの思う“真実の愛”を探し求めた結果なんだ。それはきっと、私には想像もつかない、心の深い、深いところに在るのかも知れない。

私は、私は…

「ん?どうしたんだいアイハ?」

「あ…ううん何でもない」

庭を一周して施設に戻るとおばあちゃんをいつもの場所へ連れていく。

「じゃあおばあちゃん、また来るね!」

おばあちゃんの手を握ると、気のせいかおばあちゃんからグッと手を握り返してきた気がした。

「…おじいちゃん…」

「ん?なんだい?」

「私…介護士になる」

「うん?うん…そうか…いいと思うよ…
…アイハ…ありがとう…」

おばあちゃんの面倒を私が看よう。そうすればパパもおじいちゃんも安心して研究が出来る。それよりも、おばあちゃんだって家族なんだ。
私が一緒に居たい。
家族で、みんな家族で、いつか一緒に暮らすんだ。そう決めたら、心がすぅっと晴れ渡っていった。

私は家族と共に生きる道をそうやって選んだ。

——————————-

その日の夜、ご飯の時にパパとお話しした。

「ねぇパパ?」

「なんだいアイハ?おッ!この煮付け最高だな!」
モグモグ

「うんありがとう。あのね、話してもいい?」

「うんいいよ」

「あのね、これからのことなんだけど…」

「ッ!結婚はまだ早いぞ!」
ゴハンツブブハー

「違うよ!ご飯粒撒き散らさないで!私、介護士になろうと思うのッ!」

「介護士…?」

「私ずっと、私がしたいこと、私が出来ることってなんだろうって考えてたの。今日おばあちゃんに会って思ったんだ。おばあちゃんだって家族なんだって。私、家族みんなで幸せに暮らしたい。それでね、ママも起きた時に身体動かないかも知れないし、何より今ここにいる家族のお世話が出来たらいいと思ったんだ。
ケンおじいちゃんの言うことは良くわからないし、ジニアスのことはパパが言った通りまだまだ早いっていうか、今は考えられない。現実的に今、私が出来ることってそういうことだと思ったの。パパ…パパはどう思うかな?」

「うー…ん」
くわえ箸で宙を見ているパパ。

「パパ、“くわえ箸”は、はしたないよ」

「あぁ…ごめん。アイハ、アイハはそれでいいのかい?」

「うん?うん、いいと思うよ」

「そうか…いや、パパね、最低限ママのことは知ってもらいたかったから、今マシンの取り扱い方を覚えてもらっていたけれども、アイハが本当にやりたいことを優先していいんだからね。なんとなく周りを優先して、本当にアイハがやりたいことが出来なくなっちゃってるんじゃないかという気がしてね。その辺はどうなんだい?」

「あ…うん。そうだねぇ…正直、“自分のやりたいこと”ってまだわかんないんだよね。将来なんて真剣に考えたこと自体が初めてだったから。だけど、考えて考えて、それでたどり着いた答えだから、今はそれ以外は思い付かないカナ…」

「そうか…わかったよアイハ。君の思う通りにしたらいい。だけど、途中で他にやりたいことが見付かったら、それはそれでいいんだからね。パパはいつでもアイハの人生を応援しているから」

「うん、パパありがとう。それでね、ケンおじいちゃんにもお話に行こうと思うんだけどいいかな」

「そうか…よしわかった。パパも一緒に行こう」

「いや、パパはママのところに居て。私、きちんと一人で行って話してきたいの」

「…そうか…わかった。じゃあ粗相のないようにね」

「“くわえ箸”はしないよ」

「ぐ…!うん…そうだね…」

「しょんぼりしないの。…パパ、私のこといつも真剣に考えてくれてありがとう」

「うん、こちらこそいつもありがとう。じゃあそれでいこうか。
…アイハ…ママのことも少し話してもいいかな?」

「うん、ママ何かあったの?」

「いや、これからのことなんだ…キキョウがマシンに入って2週間が経とうとしている。本当はまず、4ヶ月は身体の安定に必要な期間なんだけど、キキョウは身体を鍛えずに最低限のプログラムのみで入ってしまったから、細かい設定が必要な状態でね。

本来は設定を行ってから入るのが逆になっていているから、現状を見ながらプログラムしている状態なんだよ。それが安定し次第、次はパパがマシンに入った記録の追体験をプログラムしていく。

これはパパの記録から、実時間に準じてプログラムした記憶が追体験されているのがわかったからなんだけれども、ここにママを乗せることが出来れば、とりあえず6年は記憶の迷子になることはないはずなんだ。

…ただ、キキョウにとっては辛い記憶をもう一度体験することになる。それに今のキキョウが耐えられるかに一つの懸念があるんだ…だから、平行してもう一台マシンを作る。理論上では人工知能を媒介にして、ナノマシンからの信号を二人が共有出来るはずなんだ。それを用い、パパがキキョウを連れ戻す。

それにはアイハ、パパがマシンに入る前に3人で行ったあの日の記憶が必要になる。だからアイハ、あの時に壊れた時計…まだ持っているかい?」

「あるよ。私の宝物だもん」

「うん、それをしばらく貸して欲しい。それと、出来るだけ詳細にあの日の記憶をノートに書き出して欲しいんだ。
ただ、記憶の途中で別の記憶を挟んだ場合、何がイレギュラーを起こすか想像が付かない。だから6年後にパパとの記憶が途切れた時が、キキョウの記憶に会いに行くチャンスなんだ」

「…時計とノートはわかった。ケド、私は…私は会いにいけないの…?」

「…うん…マシンはもう一台がおそらく限界だと思う…パーツ毎に予備をもちろん作るけれども、一つ一つのパーツを細かく微調整して一つのマシンを作り上げないとうまく作動しないんだ…だからこれはパパに行かせてくれないか?」

「…うん、わかった。そうか…その方がいいかもね…」

「ありがとう。ただこれは、現時点での計画だから、これからもっといい案が生まれるかも知れない。技術は日進月歩だからね」

「うん、わかったよパパ。話してくれてありがとう」

「その都度話をするよ。アイハもパパに相談してくれてありがとう」

「うん、じゃあお互いにがんばろーね!パパ…パパは大丈夫?辛くない?」

「あぁ、パパも辛いさ。だけどアイハが居てくれるからね。本当に辛いのはママの方だ…いや…そうじゃないか…本当はこの間アイハに気付かされたんだ」

「私に?」

「そう。アイハ、ケンおじいちゃんのところで言っていただろう?“私達は生かされている”って。あれね、今はパパも心からそう思う。あれからパパもアイハの言葉をよく考えたんだ。
誰が辛い、自分が辛いじゃなくて、それは全て自分のエゴから思う感情なんだって。
本当は、人間は生きているだけで周りから生かされている。
たくさんの先人達の愛に囲まれて生かされている。確かに自分が“辛い”とか“悲しい”という感情はあるし、それは消えない。“自分のせいで”とか“なんで自分ばかり”とも思う。だけど、それも含めて“生命”なんだと今は思うんだ。だからこの命を、どう使うかだと思うんだよ。
それは“生かしてくれた”周りの為に使うものだと今は思う。自分は周りに生かされているんだから、それをお返ししないと。

パパね、思うんだ。赤ちゃんの時は、何も出来なくて、全部人に助けてもらって生かされているだろう?
服を着ることだって
身体を洗うことだって
トイレだって一人で出来ない。
だけど大人になるにつれて、色々なことが出来るようになる。それは、今までしてくれた人達に恩返しをする為に出来るようになるんじゃないかって。

だから、身近な人から、自分の出来ることを返していけば、そうすれば、みんな幸せになるんじゃないかと思ったんだよ。

“辛さ”は確かに辛い。
けれども、それを“自分ばかりが辛い”から“幸せ”に転化していけば…
人の為に生きることが出来れば、みんなが幸せになるんじゃないかと思うんだ。

ほら、日本語だと、“辛い”に一を足すと“幸せ”になるだろう?辛さを“自分ばかりが”と感じると辛いままで、一を足して、周りの為に生きることが出来れば、幸せになるんだよきっと。だからパパはもうきっと大丈夫だよ」

相変わらずパパの話は難解だ。だけど、なんとなく言いたいことはわかった。

「うん…そうだね!だけどパパも辛くなったらいつでもアイハに相談してね」

「その時は宜しくお願い致しまする」
パパが仰々しく頭を下げる。

「うむ、では風呂に入るがよい。熱々を沸かしておる」

「ははッ!有り難き幸せッ!」

武将ごっこ。
日本にいた時に見た時代劇からジニアスとパパと3人で流行った遊び。そうやってパパをお風呂へいざなうと、私は早速ジニアスにSNSでメッセージを送った。

『近々ケンおじいちゃんに挨拶したいんだけど、忙しいよね。時間は合わせさせてもらうからいつが空いているかな?』

『ちょっと待ってて』
すぐにジニアスから返信が来た。そして、
『明日のいつでもいいって、てか今でもいいって言ってたけど断ったよ。でもすぐが良かった?』

早ッ!…孔明…実は暇なのか…?

『いえ、明日でいいです。ありがとう。何時くらいがいいかな?』

…返信早ッ!

『じゃあ午前中はどうかな?僕が迎えに行くよ』

『いや、自分で行きます。じゃあ明日の11時にはおじゃまします。宜しくお伝えください』

『そうかい?ていうかそんなにかしこまらなくていいよ。明日はみんないるからお昼一緒に食べようか。じゃあ明日楽しみに待っているね!』

おー。明日はみんないるのか…了解。

トコトコトコ
ガチャ

「パパーちょっと出掛けてくるわー」
お風呂場のパパに話し掛ける。

「こんな時間にジニアスかーッ!?」
ガシガシガシガシ

「ちがーう。お菓子買ってくるのー」

「あーわかったー」
ジャバー

頭洗って流してるな…

そそくさと近所のケーキ屋さんでマドレーヌのセットを購入した。あー明日はジニアスママもいるんですね。んん!よし!気合いを入れてマドレーヌの箱に力を込めたら少し潰れた。明日、がんばろう!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

朝、バスでジニアスのお家へ向かう。いちいち言いに行かなくてもいいかも知れないケド、“ケジメ”ってヤツだ。ママがお世話になっていることも含めて私自身が挨拶に行くべきだろうと思った。
私は、自分のコトがまだまだ子供だと思うケド、もう大人だって思う時もある。
今回、たくさん悩んで自分の道を決めた。普通は大学生とかになって考えるものかも知れない。もっと子供らしく「ワタシ、ナニモデキナイ」って言っても良かったのかも知れない。結果として、みんなが提案したことを全部蹴ったカンジになったかも知れない。

私には正しい答えなんてわからない。今でも不安に思う。本当にこれで良かったのかな?って。

パパやシィエお姉さんの言う通り、ママの為にマシンの事を勉強した方がいいんじゃないか?

ケンおじいちゃんみたいな偉い人の言う通り、ジニアスと結婚した方が今後のことを考えたら良かったのかも知れないとか。

ケド、私は私なりの現実的な答えを出したつもりでいる。ただ、パパが言っていた『自分が本当にやりたいこと』の言葉が引っ掛かかってる。本当に自分がやりたい事って何なんだろう…でもパパは言ってくれた。『見つかった時にまた考えればいい』って。そんなものかも知れない。そして、そんなパパの言葉が温かく嬉しかった。

私から見たら、パパは昔からそんなに変わらない。ちょっとお茶目になったくらいで、昔からめんどくさい話が多く、優しいパパだ。

パパは前に、何をそんなに悩んでいたんだろう?そしてママは今、何がそんなに辛かったんだろうか…

ママ…

そんな事を考えているうちに、ジニアスの家のそばのバス停に到着した。

…なんかここから長かったよな…

そう思ってたら、でっかい車が横付けしてきた。

「ハーイ!アイハー!」
窓からジニアスママのお出迎え。

唐突!!

「あ!あの、以前は飛行機でありがとうございました!あの!これ!」
とおろおろしながらお菓子の入った紙袋を渡した。

ガチャと車から降りてきたジニアスママはジニアスにもシィエお姉さんにも似ていない。どっしりとした体格が“ビッグママ”という風体を醸し出す。

「あらー!いいのにお土産なんて!!さぁさぁ乗って乗って!」

そう言いながらお土産を受け取ると、ジニアスママはグイグイと背中を押してきて車に乗らされた。中ではジニアスが申し訳なさそうに「や、やぁ」と言った。
ジニアスいるんじゃん!

「…僕が迎えに行くって言ったら、マムも行くって聞かなくてさ…」

「あー」
そんなカンジはする。

「さぁさぁアイハ!美味しいお紅茶用意したから早く行きましょ!何これ?え!?マドレーヌ!?あなたって最高だわぁ!ささ!ブロイン!早く行ってちょうだい!」

マシンガントーク。

ブロインと呼ばれた運転手は「はい奥様」と短く返事をすると、静かに車を発進させた。

目の前ではジニアスがゲンナリした顔をしている。

「んもー本当久しぶりね!ちょっとぉ元気だった?あら、あなたちょっと痩せたんじゃない?ダメよぉたくさん食べなきゃ!今日はね、ライトにサンドイッチにしたの!いや私はね、せっかくアイハが来るんだから豪華なフレンチにしようと思ったんだけどね、あの子が軽くでいいって言い出すからぁ。本当はアイハもフレンチが良かったわよねぇ?今からでも大丈夫よ!変えようか?」

ぉぉ…相変わらずグイグイくるなぁ…あの時は初めての飛行機でテンション上がってたケド、素でこれはちょっとキツイな…いやいや、せっかくおもてなしくださっているのだ。失礼な考えはよそう。

「マム…アイハが困ってるだろ…」

「あ…そんな事ないです。フレンチもいいですよね」

「でしょう!ジニアス!料理長に電話してちょうだい!フレンチに変更よ!」

あわわ…!余計な一言を言ってしまった!ジニアスがマジで!?みたいな顔をしてる!

「あ…いや…!でも私、今日はサンドイッチな気分でした!サンドイッチが好きすぎてヤバいんです!」

「あら!そうなの!?うちのサンドイッチは最高よ〜!シェフがね!いいのが揃ってるのよ!それにねぇ…」

セーフ!
うかつなことは言えませんな…ジニアスママに掛かったら強引にジニアスと結婚させられてしまいそうだ。むむ…気を付けよう…

それからは無難に「はい」と「へぇ」と笑顔を繰り出してその場を乗りきった。ジニアスの顔からは早くも疲労感が漂っている…

うん。わかる気がする。でもなんだか私、好印象なのカナ?あの時会っといて良かったぁ。

…あの時…?偶然に…?

違う。きっと偶然じゃない。
あの飛行機はおじいちゃんが手配してくれていた。そして私は未成年だし…
その時すでにジニアスがパパに近付くように言われていたとしたら、この不自然な偶然も理解できる。

フフフ…コナ○ばりの名推理ですな。

息子が近付く方なのに、息子に悪い虫が付かないようにどんな娘なのか見定めてたんだろう。

「ところでアイハ!ジニアスとの式はいつにするんだい?」

…はい?

「マム!それはまだないって話したじゃないか!」

「あれェ?そうだっけ?でもいいじゃない!この子ならジニアスちゃんのお嫁さんにぴったりじゃないか!アタシは大丈夫だから!」

「あの…いや…」

「うちのジニアスちゃんが嫌かい?アイハ」

「いや…そういうワケじゃなくてですね…」

「ならいいじゃない!いやぁ、うちのジニアスちゃんにもこんないいお嫁さんが来たら安泰だね!あははははははは!」

カオス!
うん、間違いない。ケンおじいちゃんの血筋っぽい。お金持ち特有の『言ったことは全て決定事項』的なアレだ。

ジニアスを見ると違う違うみたいな顔をしてる…ジニアスはそんなこと言わないっぽいケド、押し切られてるカンジだな…まぁ、決定される前にその件も含めてきちんとお話しせねば…

ジニアスママのマシンガントークが炸裂する中、いつの間にかお屋敷に到着していた。
屋敷ではサンドイッチという名のゴージャスなランチが用意されていた。ナニコレ?パーティー?

「あらアイハちゃんよく来たわね」

あ、シィエお姉さんだ。今日は普段着なんだな。オフなのかな?

「シィエお姉さんこんにちは。あの…これって…」

「あぁ、これね。お祖父様がアイハちゃんが来るって言ったらなんだか張り切っちゃって…気にせずに楽しんでね!」

いやぁ…なんか結婚披露宴立食パーティーみたいになってますケド…でもジニアスは普通にしてる。セレブはこれが普通なのか?

「アイハ!よく来たな!ガハハハハ!まぁ座れ!」

「あ、ケンおじいちゃんこんにちは」

「ささ!アイハこっちに座って!主賓はここよ!」

んん!?ジニアスママに通された席はジニアスの隣で、なんだか御披露目みたいになってるゾ?ムムム…

「あらー!そんなに緊張しなくていいのよ!リラックスリラックス!そうだ!少しお酒飲む?」

「マァームッ!」
速攻でジニアスからフォローが入る。

「やぁね冗談よ、冗談!あははははははは!」

「全く…なんかゴメンよアイハ…」

「いや…いいんだよ。ただびっくりしちゃって…」

「ガハハハハ!アイハ!たくさん食え!」

「お祖父様、乾杯もまだよ」

「おぉそうか!皆、グラスを持てぃッ!」

慌ててグラスを用意しだす執事さん達。あぁ〜ここで働くのは大変そうですね…

「では!今日はよく来てくれたアイハ!我が孫ジニアスとアイハの祝賀を祈って!カンパーイッ!」

「かんぱーい!」
「アイハちゃんに乾杯!」
「ジニアスちゃん!アイハ!おめでとう!」

んん!?なになに!?祝賀…!?…ってオーイ!!
ジニアス!まんざらでもない顔してる!ダメだ…私、この波に飲まれたらダメだ!

「あのッ!」と私が大きい声を出すと、みんないっせいに振り向いた。

「私、ジニアスとまだ結婚しませんッ!」

しーん

「…アイハちゃん…“まだ”ってことはいつかは考えてるの?」

シィエお姉さん…まさか地雷!?私、地雷踏んだ!?

「オォ!遂にその気になったかッ!いやぁめでたい!」

「ジニアスちゃん…いいお嫁さん見つけたわね…」

そこっ!ジニアスママしんみりしない!ジニアス!嬉しそうにびっくりしない!ダメだ!ダメだこのペース!

「いや!そうじゃなくて!私、介護士になりたいんですッ!!」

「介護士…?あら素敵じゃない?ねぇお祖父様、これでお祖父様がどうかなっても安心ね」

シィエお姉さん!違う!なんか違う!

「おぉ…アイハ…わしの為に…」

ケンおじいちゃん違う!いや看るケド!面倒看るケド!

「あら私もそのうちお願いしようかしら!?アイハに頼むわ〜」

ジニアスママ!いや!この人は最初からだ!

ジニアス!少しウルウル感動してこっち見ないで!違う!違う!いやケンおじいちゃんは看るケドッ!

「アイハ…すまんのぅ…」

ケンおじいちゃんがホロリとしてる!違ーうッ!あー!もーッ!

「話を聞いてェッッ!!!」
ドンッ!

しーん…

「アイハ…ちゃん…?」
シィエお姉さんごめんなさい。でもここは譲れませんッ!

「あの!私!今日来たのは!前に!ケンおじいちゃんに!ジニアスと結婚しろって言われて!シィエお姉さんからは!研究室に入れって言われて!でも!そうじゃなくて!私!普通の介護士になりたいんです!今日は!それを伝えに来たダケです!これで失礼しますッ!」

そう言って、泣きそうになりながらカバンを持って走り出した。

「ちょちょ!ちょっとアイハ!」

ジニアスがキョドってるケドもう知らない!ガチャン!バタン!と扉を締め、ずんずん廊下を歩いていると「ちょっと待ってー!」と後ろからシィエお姉さんが走って来た。

「アイハちゃん!ごめんなさい!うちの家族こんなで!」

後ろを振り向くとシィエお姉さんが丁寧に頭を下げて謝っていた。

「…ぅわぁ〜ん!ジィエ゛お゛ね゛ぇ゛ざぁ゛ん゛ん゛ん゛〜ッ!!」

滝のように涙が流れ落ちた。

「あぁ〜ゴメンねアイハちゃんゴメンね…」

涙と鼻水がだだ流れるのを構わず、シィエお姉さんは優しく抱き締めてくれた。
よしよし…と優しく頭を撫でてくれる。

ぅふー
ぅふー

と呼吸を整えていると、「アイハ…?」とケンおじいちゃんをはじめとした、ジニアスママとぼんくらジニアスが扉の向こうからそ〜っとこっちを見ていた。

「びえぇぇ〜んッ!!」

サッ!と三人が部屋へ逃げ帰る。

「…ゴメンね…アイハちゃん…なんか、みんな舞い上がってしまってね…
話があるみたいだって、ジニアスから聞いていたけど、そうかぁ…介護士さんかぁ…きっとたくさん考えたんだねぇ…」

ぅふー
ぅふー

シィエお姉さんのおっぱいはふかふかでとてもいい匂いがして、なんだかママに抱き締められている気がした。

ぅふー
ぅふー…

ひくっ…
えぐっ…

ぅふー…


ズビビッ!

「うぅ…シィエお姉さん…ひぐっ…ごめんなさい…」

「ううん、いいの。こちらこそゴメンね。アイハちゃんの気持ちも考えないで…ほら…すぐそこ、私の部屋だから、一緒に行こ?」

シィエお姉さんに連れられてシィエお姉さんのお部屋に行った。
白を基調にしたシンプルで上品なお部屋だ。シィエお姉さんは私を優しくソファに座らせてくれた。

「ほらほら、鼻かんで」

ビィー

「ふぃー…」

「アイハちゃんちょっと着替えるから待っててね」

「…ぁぃ」

私の鼻水と涙でぐちょぐちょになった上着を脱ぎ、白いカットソーに着替えている。

「ふぅ…」

「お待たせ」と目の前のイスに座り直してシィエお姉さんが言った。

「アイハちゃん、どうして介護士になりたいと思ったの?」

「…はい…
…私…自分の出来ることってなんだろうって考えたんです…
…後、やりたいことってなんだろうって考えたんです…
…たくさん、たくさん考えたんです…
…シィエお姉さんも、パパも、私も最初は、研究室に入る方がいいみたく考えたと思うんですケド…
なんだか…しっくりこないっていうか…
それであれから考えたんです…
…自分が、納得した上でやるべきことを見つけたかったんです…
こないだ、私のおばあちゃんが施設に入ってるんですケド、会いに行ったんです。そしたら、おばあちゃんも家族だから、だから、みんなで一緒にいるなら、介護の仕事なら私も現実的に出来そうだし、それがしたいって思ったんです」

「…そうかぁ。いい、目標見つけたね。アイハちゃん。良かったね。私、それでいいと思うよ。いや、“それが”いいと思うよ」

シィエお姉さんはそう言うと、にっこり笑って頭を撫でてくれた。安心したのか、ふるふると身体が震えてくる。

「わたっ…ひぐっ…わたし…ひぐっ…どうしたらいいかわかんなくて…ひぐっ…でも…ひぐっ!…なんかしなくちゃいけなくて…ひぐっ!なんか…しなくちゃ…!」

「うん、うん、よくがんばったね」

「ううう…うわぁぁぁあん!うわぁぁぁあん!」

「うん、うん、よしよし…」

そう言ってシィエお姉さんはまた鼻水だらけの私を抱き締めてくれた。私を抱き締めながら、シィエお姉さんは言った。

「たくさん、たくさん考えて、考えたんなら、大丈夫だよ。アイハちゃんが考えたこと、私も応援しているから」

そのまましばらくシィエお姉さんの胸に抱かれて泣いていた。シィエお姉さんの胸の中はすごく温かくて、すごく安らいだ。
ややしばらくして、シィエお姉さんはまた着替えると、電話でコーヒーとオレンジジュースを頼んだ。

少しすると、コンコン…とドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ」
とシィエお姉さんが言うと、おずおずとジニアスがコーヒーとオレンジジュースをトレイに乗せて入ってきた。

「…アイハ…ごめんよ…」

その後ろから、ケンおじいちゃんとジニアスママがそ〜っと中を覗いている。

「アイハ…?」
ケンおじいちゃんは怒られたあの時みたいに子犬のような目で見ている。

ジニアスママはさすがに空気を読んだのか顔を上下に動かしながら黙ってこっちを見ている。身体が大きくて隠れていない。

その様子がなんだかおかしくなってきて、ふふふっと笑ってしまった。

ケンおじいちゃんとジニアスママは顔を見合わして喜んだ。

ジニアスはほっとした表情になった。

「もう…しょうがないわね。入っていらっしゃい」

そうシィエお姉さんが言うと、ケンおじいちゃんとジニアスママは手に持ったサンドイッチをジャーン!と出して、嬉しそうに部屋に入ってきた。

シィエお姉さんはやれやれといったカンジでサンドイッチを受け取ると、テーブルに置いていった。

「もーぅ!どうしたのアイハ!突然に!でも良かったわぁ〜!ねぇねぇシィエちゃん!もうここで食べましょうよ!私また戻るのめんどうだわ〜。あらアイハはオレンジジュースなのね!うちのオレンジジュースはフロリダのね…」
と始まったマシンガントークを皮切りに、ジニアスとケンおじいちゃんもわいわいと話し出した。

「はいはーい!皆落ち着いてー」
パンパンと手を叩いてシィエお姉さんが三人を諌める。

「皆聞いて、アイハちゃんね、介護士になることを決めたのは、アイハちゃんが今出来ることを考えた結果なの。だから私はアイハちゃんの気持ちを大切にしたい。異論のある人はいる?」

「僕はアイハが決めたことを尊重するよ」
ジニアスが言った。

「それが現実的かも知れんのぅ」
ケンおじいちゃんが言った。

「いつか私も面倒見てね」
ジニアスママが愛らしくウィンクをした。

「では改めまして、アイハちゃんの愛溢れる決断と門出を祝して!かんぱーい!」

「かんぱーい!」
「うむ!乾杯ッ!」
「アイハ宜しくー!」

それからシィエお姉さんの部屋でなし崩し的にパーティーが始まった。みんななんだか嬉しそうに、楽しそうに笑っていた。それから私もたくさん笑った。
私のそばに居てくれて優しく微笑んでくれるジニアス。
私を優しく見守ってくれて温かく微笑んでくれるシィエお姉さん。
私のことが好きで豪快に笑うケンおじいちゃん。
私を気に入ってくれてたくさん笑って話をしてくれるジニアスママ。
やっぱり家族っていいなと思った。たくさんの笑顔に包まれて、私は改めてこの家族が好きになった。

—————————

そうやって私は、介護士に向けて生きていく方向性を決めた。

パパは、いつも言っている“正しい思考の方向性”にアイハは向かっているから大丈夫だと後押ししてくれる。

ある時に“正しくない思考の方向性”とはなにかパパに聞いたことがあった。
“正しくない思考の方向性”とは、ネガティブ思考に侵されている状態の思考のことで、そこから発信された方向性はたいがい正しくないということを、パパは身を持って体感したそうだ。

ネガティブ思考に侵されている時、人はどんどんマイナス思考に向かって行動をしていく。そしてその根本は“エゴイズム”にあるらしい。

パパは大好きな日本の言葉で教えてくれた。

『和を持って貴しを成す』

私心を捨て、周りと協調することが真の人生の方向性を歩む為には必要なことで、それを忘れない忍耐が必要なんだと。
それには、笑顔と温かい言葉を持ち続ける忍耐が必要なんだと。
そういうことが大切なことなんだと語ってくれた。

介護士になることを決めてから、毎日おばあちゃんに会いに行った。おばあちゃんはいつも変わらないように見えて、毎日少しずつ違った。

まず、私が会いに行くと明らかに目の瞳孔が開いた。そして私を見据えると目が輝くように見えた。パパの時は、なんとなく悲しそうな目をした。

そのうち、おばあちゃんは1日のうちに何回か唸るように声を発していることに気付いた。そして、明らかに顔付きが変わる時があった。

何がきっかけはわからないけれども、日々おばあちゃんと接していく中で、今日はなんとなく嬉しそうだなぁとか、今日は具合が悪そうだとかがわかるようになっていった。

私は高校を卒業すると、パパの大学の福祉科に入学した。そして毎日大学へ通い、研究室とおばあちゃんのところと授業とを回る日々が続いた。

そんな中でテムズさんとゆっくりお話しする機会が何度かあった。
テムズさんはおじいちゃんが開発したナノマシンの最初の被験者だった。両手両足欠損という状態で生まれた彼女は生まれてからすぐに捨てられた。孤児院の前にバスタオルでくるまりながら泣いていたのが彼女だったそうだ。スラム近くの孤児院には、麻薬の副作用か、そういう子供がたくさんいたとおじいちゃんが言っていた。

「テムズは泣くことしか出来なかったから、泣くことでしか自己表現が出来ないんだよ」とおじいちゃんが寂しそうに言った顔が頭から離れなかった。

泣いて、同調を図り、自己を満足に導く。彼女が18歳になるまで、それは彼女の生きる方法だった。だから、泣いて自分を訴えるママのことが、まるで自分と重なるような気がして、それで無謀とも思えるママの希望に力を貸してしまったとテムズさんは泣いていた。

テムズさんにはテムズさんの人生があって、それは誰にも責めることは出来ない。だからおじいちゃんも、パパも、テムズさんを一言も責めたりすることはなかった。

私はいつの間にか彼女を許せるようになっていた。
もし私が彼女と同じ立場だったら、きっと同じようにしただろうと思えた。それはきっと、その人生を歩んだ人にしかわからない何かがあることを私は学んだ。

それから、たまにシィエお姉さんの家に遊びに行くことが増えた。
シィエお姉さんはその立場上、外に出ることはなかった。それは3年前にジニアスとシィエお姉さんのお父さんが、殺害されたことに起因していた。
あの世界ではよくある話らしいけれども、私は淡々とそれを話すシィエお姉さんを見て涙を流した。“生きる世界が違うんだよ”そう言って寂しそうにシィエお姉さんは笑った。

ジニアスはいつも優しかった。
ジニアスはいつも変わらなかった。
お父さんの話をした時に、少しだけジニアスは泣いた。でもすぐに“それがダディの使命だった”と口をつむんだ。

一族の宿命だとケンおじいちゃんは言う。そしてその血筋は家族の枠を越えて、“一族”としての維持を余儀無くされる。“家族”は一族の維持の為の代表であり、私の思う家族の形と違う。ただ、そういう世界があることを私は知った。

ママは…ママは変わらない。
ただ、ママは生きている。“生きている”という事実だけが、ママへの思いを繋ぎ止めていた。この世界から逃げ出したママを私は恨んではいない。

パパは…パパは時折、難しそうな顔をする時間が増えていった。ただ、相変わらず私には優しかった。

たくさんの人の人生に触れ、それはそういう時もあることを私は学んでいった。

そして私はホームヘルスエイド(在宅介護士)とナーシングエイド(施設介護士)の資格を取得した。

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